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劇団四季 マンマ・ミーア! WATERLOO RADIO

ベニー、インタビュー②

Q.若いころ、どんな作曲家に影響を受けましたか。

 

A.私が一番初めに買ったレコードは、素敵なピアノのから始まる、エルビス・プレスリーのジェイルハウスロックとB-side, Treat Me Niceでした。しかし、私はそのころ、エルビスでないだれかが、これらの曲を書いていることに気づいてなかったのです。

 

ビートルズまで、私は曲を書くことの過程についてよく考えたことなんてありませんでした。なぜなら、突然、バンドが現れ、自身の音楽を書き始めたのです。彼らまでは、バンドが必要で、作曲家が必要だったのです。彼らには、ほかのだれも必要ではなかったのです。

 

Q.ステージでの音楽的な野望はありましたか。

 

A.あまりありませんでしたね。私は自分のピアノを弾いていて、15歳ぐらいの時にバンドに入らないかと誘われて、それから、ほかのバンドにも誘われて、それから、『ヘップスターズ』というバンドに1964年ごろ、誘われたのです。だから、私は、学校をやめて、そのバンドに入りました。

 

Q.彼らはすでにその時、成功していたのですか。

 

していませんでしたよ。私が加わるまではね。(笑) 私たちはいくつかのカバー曲をレコーディングし、それらはすべて、スウェーデンのランキングでトップ5に入りました。一晩での出来事でした。それはロックンロールで、私たちはChuck BerryやEddie Cochran、ローリングストーンズを演奏しました。私たちはほんとにほぼパンクバンドでした。

 

Q.この段階でもう作曲していたのですか。

 

初めの頃はしていませんでした。しかし、そうですね、ビートルズがいたころですね。だから私は何ができるか見たので、挑戦してみることに決めたのです。私が書いた一番初めの曲は、「No Rrsponse」という名前で、よくはありませんでした。何をしているのかよくわからなくて、足を踏み鳴らすようなものでした。それが何だったかもよくわかりません。しかし、それをバンドに披露すると、彼らは気に入り、レコーディングしました。そうすると、少しだけヒットしました。

 

2番目の曲は、真夜中にノルウェイのホテルのピアノに座っていて、書いた曲で、この曲は「Sunny Girl」という曲です。それは、まったくロックな曲ではなく、メヌエットのような感じでした。なぜ私がそうしたのか、どこからそれがやってきたのか、わかりませんが、初めて自分が何をしているのかということと、つながったのです。それは私に話しかけ返してくれて、自分自身のことなんだけれども、いいものであるという実感がわいたのです。とてもいい気分でした!

 

私たちにとっては難しかったです。私たちはとてもうるさい音を出すバンドで、その曲はとても甘く、ゆったりとしていたので。しかし、私たちはそれをレコーディングし、それは1番になりました。

 

私がもし、一つのいい曲を書くことができるなら、おそらく二つ書くことができるだろう、と考えたことがあるのを覚えています。そして、2曲かけたら、おそらく3曲かけるし、そしてそれから私は自分が将来しているだろうことが分かったのです。私が実際につながれる曲を書くことに、集中しようと思いました。

 

Q.バンドのために作曲をしましたか。

 

A.しましたよ。でもそれらはあんまりよくはなかったのです。実際のところ。私たちは当時いいと思ったのですが、実際はあまりでした。『ヘップスターズ』が活動を中止してすぐは、自分が何をするつもりか本当にわかりませんでした。しかし私はすでに1966年6月5日に道端でビヨルンと出会っていたのです。

 

私たちはギターをかき鳴らし、ビートルズの曲を演奏しました。私は彼が作曲していることを知っていましたし、彼も私がすることを知っていました。そして、私たちは、いつか一緒に何かするべきだよね、と話していました。

 

初めは、私たちはほかのスウェーデンの歌手たちに曲を書いていて、私たちは成功もしていました。それから、私たちは10曲から12曲ほど一緒にアルバムのための曲を書きました、それはベニーとビヨルンとしてレコーディングし、幸せを意味する『Lycka』というアルバムでした。私たちは悪くないと思いました。

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そのころまでに彼はアグネタに、私はフリーダに出会っていて、「Hello Old Man」という一つの曲には、バックコーラスが必要かもしれないと思ったのです。だから、彼女たちを呼び、歌い、すぐに、「こうあるべきだ」と思ったのです。

 

私たちは4人でキャバレーバンドとしてツアーをすることになりました。人々が食べたり飲んだりしているところで、カバー曲だけを演奏していました。それはもう信じられないくらい恥ずかしかったですよ。でも、セットの真ん中で、そのレコードから10分間の曲を歌って、それだけは良い気分になれた事でした。それが少しだけ好きだったことで、観客の事なんて全く気にもしませんでした。私たちはそんな10分が好きだとわかっていたのです。

 

だから、ビヨルンと私は英語でポップソングを作りたいって決めました。そしてスウェーデンの国境を超える事に挑戦したかったのです。女の子たちは歌うべきなのです。

 

しかし、私たちは自分たちに尋ね続けました。どうすれば、スウェーデンに住んでいない人達に自分たちの存在を知ってもらえるだろうか。そんなわけで、私たちは『ユーロヴィジョン・ソング・コンテスト』に応募したのです。私たちは「リング・リング」という歌を作り、そしてそれはスウェーデンの大会で3位になりました。でも私たちは諦めませんでした。

 

その次の年に、私たちは「恋のウォータールー」を書きあげ、スウェーデンの大会で優勝し、1974年についにブライトンで優勝したのです。

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