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劇団四季 マンマ・ミーア! WATERLOO RADIO

ベニー、インタビュー③

Q.あなた達はそれが勝てる曲だと思っていましたか。

 

A.いいえ。うーんでも実はそれに私は20ポンドを賭けていました。いくつか他にも良い曲がありましたが、わたしは私たちの曲の方がより良いものであると思っていました。

 

私はそこに立っていて、暗算が得意なので、たとえもうこれ以上自分たちへの票がないとわかっていたとしても、私たちが勝つ瞬間がいつか正確にわかっていました。だから、他の皆にいいました。「ついにやったよ」

 

 

Q.あなたとビヨルンはいつも一緒に曲を書きましたか?物理的に、同じ部屋で一緒に。それともお互いにアイディアを持ちよったのですか?

 

A.私たちは大抵の場合は一緒に書いていましたよ。一緒に座って、私がピアノを弾いて、彼がギターを弾いて、一緒にスウェーデン語で馬鹿げたことや、くだらない英語でハミングをしていました。そして突然、何か思いつくのです。

 

私たちは、二人ともが同じように感じなければいけないと、いつも言っていました。私はいいね。と言うけれど、ビヨルンは、いいや、そうは思わないね。と言う。そんなことは何度もありましたよ。

 

次の日に私はもう一度挑戦してみます。それでもノ-と言います。私は何度もやってみて、時には彼の気持ちをかえることもできます。でもいつも、二人が同意しなければなりません。全てのABBAの曲においてです。だから私たちは良いものが作れるのです。もし誰かがノーと言えば、それはよりよくなりうるのです。そうすれば私たちはただやり続けるだけです。

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Q.音楽と歌詞の間の境界線はどこにあるのですか。

 

A.私は今までに1曲か2曲を書いただけです。嫌いでした。そしてわたしは本当に下手くそでした。彼には指を鳴らすぐらい簡単なことで、素晴らしい歌詞を一瞬で書きます。今でも、です。

 

Q.しかし、あなたは音を決め、音楽的に方向性をリードしていたのですよね?

 

A.たぶん、そうかな?うーん。ピアノはギターより音が大きいからね(笑)

 

誰かが一度、君は一度もアルバムを作った事がないね。君はただシングルになりうる曲を作って、それを1枚のレコードに集めているんだ。って私に言いました。

 

うーん。そんなところもあるかもしれません。本当の事は、薄い空気から始め、それからどうにかして、曲を書くのです。そしてもし、その歌が「SOS」なら、薄い空気にもどして、その次の曲が「SOS」ではない何かであるべきなのです。

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Q.あなたは初期のころの歌にあった、繊細さや憂鬱さが失われたと思いますか。それとも見落としているだけでしょうか。

 

A.もしかしたらそうかも。

 

 

Q.それはあなたを悩ませていますか?

 

いいえ、まったく。人生って良いものだよ。自分ができる最良の事はなんでもできるのです。自分ができる最良の物を書き、それから挑戦し、自分ができるベストでレコーディングし、私たちの中にあったビジョンとマッチするようにするのです。だから、例えば、100曲ABBAの曲をレコーディングしたとしましょう。で、20曲は私たちが考えていたほどよいものではなかった。60曲はまあまあ。20曲は自分たちが考えていたより良いものになっています。

 

そして、私はその20曲、いえ、何曲でもいいのですが、それらが良いレベルに達していると思い、私たちが一定期間無視されずに存在するようになる。私たちはそこにそんなに長い期間いて、良い仕事をしたのだから。

 

Q.人々はまた、ABBAの曲は、あなたがフリーダと別れ、ビヨルンがアグネタと別れる事に影響を受け、年々リフレクティブになったと言います。それは言いすぎだと思いますか?

 

A.私はそう思いますよ。私は、憂鬱さなんてものは、初日からあったと思いますし、全ての作品を通して憂鬱さはあると思います。それがただ、ポップの装いをしただけで、ただのポップではありませんでした。

 

Q.ABBAの曲の中で、あなたが一番誇りに思っている曲はどれですか。

 

A.「ザ・ウィナー」が良いと私は思いますね。あと、「ノウイング・ミー、ノウイング・ユー」もすばらしいレコーディングだと思います。

 

「テイク・ア・チャンス」も良いと思います。「ダンシング・クイーン」や「悲しきフェルナンド」はまあまあ。

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Q.4人としての名声はどれくらいすごいものでしたか。

 

A.悪くはなかったですね。私たちはストックホルムに住んで、家族や犬と普通の生活をしていましたよ。ツアーはそんなにしませんでした。

 

10年以上一緒で、たぶん60日か70日をツアーに出ていたと思います、なぜなら、ビヨルンと私は知っていたのです。書く時間がいるってことを。偶然出来上がるまで、座って待っていないといけないのですから、すごく時間がかかるのです。

 

Q.一度ヒット曲がやってくると、ひどくたくさんのレコードが売れました。あなたとビヨルンは次の曲を生みだすのにプレッシャーを感じていましたか。

 

A.いいえ。私たちは自信がありました。私たちは誰にも自分たちにプレッシャーを与えさせませんでした。だって、彼らに何ができますか?私たちが仕事をし、アルバム用に2曲が残った時、リリースの日を決める事ができ、そうすればそれは少しプレッシャーだったかもしれませんが、それは私たちが決めていた事でした。

 

私たちが『スーパー・トゥルーパー』というアルバムを作った時、実は後もう1曲必要だったのです。時間は無くなってきていました。だから私たちはスタジオに夜通しいて「スーパー・トゥルーパー」を書いたのです。それ以前にもそれ以降にも、そんなことは起こりませんでした!


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