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『CHESS IN CONCERT』セカンドヴァージョン⑦FROM ABBA TO『CHESS』

1.FROM ABBA TO 『CHESS』

1981年、ABBAは最後のオリジナル・アルバム『ザ・ビジターズ』を発表した。今まで“愛で包まれていた”ABBAは、ビヨルンとアグネタの離婚(79年)、ベニーとフリーダの離婚(81年)で、その関係にヒビが入り始めていた。ビヨルン、ベニー共に“新しい家族”を持ったからだ。家庭のことを仕事に持ち込まないビヨルンとベニーとは言え、女性陣にとっては大きな痛手で今後のABBAの行く末を誰もが案じていた。

この頃、ティム・ライスと、ABBAのビヨルン・ウルバース(ギター)、べニー・アンダーソン(キーボード)は“初めて”出会う。1人のイギリス人と2人のスウェーデン人。ヨーロッパでは珍しくもない出逢いだったが、そのバックグラウンドには、括目すべき拡がりが潜んでいた。イギリスを拠点に、アメリカをはじめ世界に衝撃的なミュージカルを提供してきた男と、スウェーデンから出て、ヨーロッパ、アジア、オーストラリア、そして全世界を“ABBA”旋風の渦に捲き込んだ、ポップス界の風雲児たちの握手であった。だがこの時、ビヨルンもベニーもABBAを解散するつもりはなく、「ミュージカルを一緒に作ろう」と言う話は、“幻の話”で終わった。

82年終わり近く、ABBAは『結成10周年』のプロモーションでロンドンに訪れる。この時、一年ぶりにティムとビヨルン・ベニーは再会し、ティムがいくつか持ってきた原案の中でビヨルンとベニーは『CHESS』に惹かれる。この頃、ビヨルンとベニーはABBA9枚目のオリジナル・アルバムの構想を練っていたが、長年の夢であったミュージカル製作への衝動が日増しに大きくなる。ABBAとミュージカル…2足の草鞋を踏むことはどう考えても不可能だった。そうして、ビヨルンとベニーは決断する。1983年、活動を全てキャンセルし、83年、ABBAは「活動停止」に入る。言っておくが“引退”あるいは“解散”ではない(以後、一言もABBAのメンバーから“解散”と言う言葉は出ていない)。

その後約18ヵ月。彼らの度重なる会合の間に、1粒の蒔かれた種子が、やがて青い芽をふくことになる。彼らはそれに、『CHESS』という名を与えた、ひとつのミュージカルとして構想された『CHESS』は、彼ら3 人の合同プロジェクトのもと、ますますアイデアを膨らませ、歌詞に磨きをかけ、メロディを洗練させていった。1984年のはじめに、その膨大なスコアが完成に近づいていた……。

オーソドックスに言えば、普通、ミュージカルは、まず上演され、その後、サウンド・トラックとしてレコードが出るのが通常だったが、『CHESS』の場合は違った。ビヨルン、ベニーがミュージシャンだったこともあるが、それよりもティムが、上演前のアルバムの発売にこだわった。だが、曲があまりにも多過ぎ、LPレコード3枚はゆうに超えていた。レコード3枚発売と言うのはマーケット的にもあり得ない。しかも高価になってしまう。当時はCDとレコードの過渡期で、未だビニール(レコード)の需要が多かった。今であれば悠々CDに収まる曲数だが、当時のレコードでは無理だった。その為に曲を絞りに絞り、2枚組のレコード発売で落ち着いた(ちなみに、世界“初”のCDは、ABBAの『ザ。ビジターズ』)。

だがせっかく珠玉の名曲揃いの『CHESS』だ。LP2枚で終わらせるのはあまりにも虚しい…。そこで考え出されたのが『コンサート』の上演だった。『CHESS』はミュージカル上演の前に、まず『コンサート』所謂『CHESS・イン・コンサート』が披露され、同時にレコードが販売され、最後にミュージカル上演となった。かつてない、ミュージカル史上初の試みであった。

なお、『CHESS・イン・コンサート』の初演は1984年10月27日、ロンドン・バービカンセンターで開幕した。続いて、パリ、アムステルダム、ハンブルクを巡演し、11月1日ストックホルムのペルヴァルド・ホールで幕を降ろした。アルバムはこの間の10月29日に発売された。

コンサートは『ロンドン交響楽団』を中心に総勢250名で公演された。日本人で観に行ったのは…筆者を含め一体何人いただろうか?(多分…皆無に等しい)。

ゆえに『CHESS』は来年めでたく“30周年”を迎える。

2.ティム・ライス

ティム・ライスはl965年、作曲家のアンドリュー・ロイド・ウェバーと出逢って以来、ミュージカルに独自の世界を築いてきた。試作に終わったバルバルド博士の伝記的ミュージカルを手始めに、68年には聖書の創世記に取吋した『ヨセフとテクニカラーのドリーム・コート』、70年にはイエス・キリストの最後の7日間を描いた『ジーザス・クライスト・スーパースター』、76年にはアルゼンチンの独裁者ペロン大統領の妻エヴィタの生涯を猫いた『エヴィタ』と、いずれもミュージカルには破格の題材を扱って、しかも大きな成功を収めてきた。ウェバーと別れ、83年にスティーブン・オリバーと共作した『ブロンデル』も、中世に取材した作品だった。

聖普や中世伝説、もしくは実在した人物をピックアップして、そこから具体的個性を削り落しながら、いわば彼らや彼女らを極端に機能化することによって、ある状況を典型的に造型してきたのである。そして、そのような構造主義的な「状況」ミュージカルであることによって、『ジーザス・クライスト・スーパースター』や『エヴィタ』は、あれほどにも若者の支持を受けたのだった。

ティム・ライスは『CHESS』によって逆に状況から出発したようにみえる。政治の陰謀やビジネスマンの打算、そしてエゴイズムのパラノイア症状。こういった現在の状況をCHESS・ゲームに仮託しつつ、アナトリーとフローレンスという、きわめて優美な個性に到達した。アナトリーのナンバー「エンバシー・レイメント」「アンテム」、フローレンスの「ヘヴン・ヘルプ・マイ・ハート」に、それがよく現われている。新しい創造の領域に踏み出したティムは、その冒険を大きく稔らせたのではあるまいか(アナトリー、フローレンスを形づけたのがティムであり、フレディ、アービターに役を吹き込んだのはビヨルン&ベニーである)。

3.アラウンド『CHESS』

ビヨルン・ウルバースとベニー・アンダーソンについては、あの4人組ABBAの男性2人として、よく知られている。スティッグ・アンターソンいうよき指導者に恵まれたとはいえ、この2人はABBAの活躍を通じて、スウェーデンのミュージック・ビジネスに黄金の時代をもたらし、世界のホップ・ミュージックに多大な影響を与えたのである。

ビヨルンもべ二-も、ともにフォーク・ソングから、そのキャリアをスタートさせた(ベニーはその後、スウェーデン“初”のロック・ミュージシャンになるが)。彼らの音楽活動の基底に、しっかりしたメロディ・ラインが置かれ、また古い曲に理解が行き届いているのも、そのせいであろう。こうした幅広い音楽感覚が、大作『CHESS』との取り組みを可能にした、ともいえる。事実、『CHESS』の音楽的拡がりは、シンフォニーから、オペラ的ドラマティック唱法、そしてポップスと多彩に輝いている。

もうひとつ、『CHESS』を支える重要な柱として、エレーヌ・ペイジ(初代フローレンス役)と、トミー・コーバーグ(初代・アナトリー役)のタレント性を挙げなくてはならない。エレーヌ『CHESS』前、『ヘア』『ジーザス・クライスト・スーパースター』『グリース』『エヴィタ』『キャッツ』などに相ついで出演したイギリス・ミュージカルの実力派女優であり、WEA契約のレコード歌手としても、イギリスのチャートにたびたび登場していた。

トミーはスウェーデンのバンド・プレイヤーを振り出しに、スペインの『ユーロヴィジョン・ソング・コンテスト』国内予選にも出演した、ロックからジャズに至るオール・ラウンドの歌手。スウェーデン国立劇場や、スウェーデンTVを拠点に、大車輪の活躍をしている。この2人の卓抜した歌唱が『CHESS』をさらに壮麗なスケールにまで高めていたのは、無視できないところであろう。

4.『CHESS』 、遥かなるプロジェクト

この『CHESS』プロジェクトは、イギリスRCAのズボンサードによって進行した。しかし、コトは簡単ではなかった。ビヨルンとベニーは、スウェーデンのポーラー・レコードに所属しており、歌手たちにしてもエレーヌのワーナー・レコードをはじめ、EMI、ヴァージンなど各社の契約者がいた。これらの権利をひとつひとつクリアにしなければならなかった。この文章の最初で、ショー・ビジネスに対するひたむきな情熱の巨塊、といったのは、まさにこの辺の事情を指す。

果てしない交渉のあと、やっと『CHESS』はレコーディングに漕ぎつけた。アンドリュース・エルジャスの指揮するロンドン・シンフォニー・オーケストラに、P・リンドヴァル、L・ウェルアンダーらのロック・ミュージシャン、コーラスを配した大掛りなものであった。

2枚組のレコードを完成してから、プロジェクトの関係者たちは、スペシャル・コンサートを開始した。10月27日のロンドンを皮切りに、パリ、アムステルダム、ハンブルグ、ストックホルムを廻ったこのコンサートは、ロンドン交響楽団など各国のトップ・オーケストラに158人の大合唱団。会場が満席になっても、邦貨にして1億4000万円の赤字になった。85年3月には、アメリカで、続いてオーストラリアでもこのコンサートが行なわれた。

過去、ミュージカルが開幕するまでにレコードが先行した例として、『ジーザス・クライスト・スーパースター』があった。ミュージカルが評判になったあと、ニューヨーク・フィルの重要なレパトリーとなり、コンサートで数多く演奏された例として、L・バーンスタインの組曲『ウェストサイド・ストーリー』がある。しかし、レコードとコンサートがともに先行し、話題となったのは、この『CHESS』が最初だといってよい。

アルバムは発売して即、スウェーデンで『プラチナ・ディスク』となり、イギリス、ドイツはともに7万セット。シングル盤「ワン・ナイト・イン・ハンコク」「アイ・ノウ・ヒム・ソウ・ウエル」は世界的なヒットとなった。

だが、これは壮大な賭けの緒戦にすぎかった…。

5.初期『CHESS』アクター&アクトレス

フローレンス…エレーヌ・ペイジ

フレディ…マリー・ヘッド

アナトリー…トミー・コーバーグ

モロコフ(アナトリーのセコンド)…デニス・キリー

スベトラーナ…バーバラ・ディクソン

審判(アービター)…ビヨルン・スキフス

☆「ワン・ナイト・イン・バンコク」(フレディ)

http://www.youtube.com/watch?v=TaD1BuigS3g

http://www.youtube.com/watch?v=F5kwsbcWG5k

☆「アイ・ノウ・ヒム・ソウ・ウエル」(フローレンス&スベトラーナ)

http://www.youtube.com/watch?v=LeMk7B46xg8

http://www.youtube.com/watch?v=3hqnfbkxLlo

http://www.youtube.com/watch?v=sF1hIaHKANk

(特別篇:エレーヌ・ペイジ&スーザン・ボイル)

続く


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