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劇団四季 マンマ・ミーア! WATERLOO RADIO

『CHESS IN CONCERT』セカンドヴァージョン㉝最終話『CHESS』未来へ!<第4回最終回>

この問ビヨルン、ベニー、ティム・ライスのトリオはロンドンとストックホルムを往復して、台本の最後の詰めを続けた。

初日の開幕まで4ヵ月を切った1986年1月、衝撃が走った。マイケル・ベネットが体調を崩して演出を降りると発表されたのだ。彼はビヨルンやベニー、ティムと芸術上の意見で対立して降板した、いやエレイン・ペイジとそりが合わなかったのだ等々、たちまち風説が飛び交った。だがマイケル・ベネットは事実、重態だったのである。1年後、エイズの合併症で死去した。

後任の演出家を早急に決めなければならず、すぐさま、ロイヤル・シェークスピア劇団のイギリス人演出家トレヴァー・ナンが引き継いだと発表された。実はナンは、作詞作曲のトリオが真っ先に考えた候補だったが、最初に打診されたときは多忙のため断っていた。

折りしもナンが演出契約を結んでいた仕事が1つ延期になり、『CHESS』の上演に携わる余裕ができたのだ。だが彼は、最初にクギを刺したとおり自分の目でショーを読み直し、6基の油圧リフトをはじめマイケル・ベネットが作らせた凝った大道具をほとんどお払い箱にした。もっとも、舞台美術のロビン・ワグナーの設計で128個のモニターを積み上げたビデオウォールなど、残された大規模セットも何点かある。

監督交代とそれに伴う調整で、リハーサル期問を短縮しなければならなくなった。そのうえ新たな問題が発生して、すでに充分きつかったスケジュールがさらにきつくなった。舞台機構の仕掛けが、頭痛を起こすトラブル続きだったのだ。プリンス・エドワード劇場のリハーサルは、おかげで延期に延期を重ねた。ビヨルンがいら立って嘆息をついたのも不思議ではない。「まともな神経の持ち上なら、やってられないよ」。

技術的な問題だけでは足りないと言わんばかりに、今度はトミー・シェルペリが最初のプレビューの数時間前に倒れて病院に運ばれた。長いリハーサルの疲労と開幕前の緊張のせいだったが、奇跡的に回復し、その夜の舞台を演じきった。

リハーサルとプレビューの最後の数週間には、曲の順序が頻繁に入れ替えられた。一部が削除されるかと思えば、翌日には復活した。おかけでアレンジャーのアンデシュ・エリアスは余分な仕事に追いまくられた。

「ワープロで文章の段落を1つ削除するのとは、わけが違う。削除部分の前のパッセージも変えないと後ろにつながらない。アレンジというのはAからZへの旅みたいなもので、その中間の、たとえばLやPをカットすると、Aからやり直す必要があるんだ。実に手問がかかる」。

5月14日の開幕前の数日は、なぜか上演効果の上がらない第2幕の作り直しに費やされた。「毎晩毎晩、どこが悪いのか分析した」。ベニーが言う。「プロットのバランスが悪いんじゃないかと思った。理屈っぽいわき筋、つまりチェスのゲームや束西関係に隠れて、人間同士の関係が見えにくくなっていた」。

おかげてアンデシュ・エリアスと彼の写譜係は、てんてこ舞いをさせられた。「第2幕をどうするか、最終的に決まったのは開幕当日だった。とても小さな劇場だったので、楽譜を書けるスペースはロビーにしかなかった。観客が1幕を観ているあいだに、10人の写譜係がロビーの床に腰を下ろして~中には、相当年配の人もいたが~僕らのために楽譜を書き直してくれた」。

ぎりぎりまで続けられた改善努力にもかかわらず批評はまちまちで、手放しでほめる評論家と同じくらい酷評する評論家がいた。ただしキャストは一様に称賛され、そして観客のあいたではミュージカル『CHESS』は概して好評だった。 1989年4月8日に幕を下ろすまで、3年にわたって続演された。

ロンドン公演とは対照的に、1988年春のブロードウェイ公演は短命に終わった。ビヨルンとベニーがキャリアで経験した数少ない挫折の1つである。

チェスの試介や政治的対立からロマンティックな愛の物語へ、ミュージカルの重点を移す努力はロンドンでもすでに行われていたものの、ニューヨークではさらに徹底する必要があった。

演出のトレヴァー・ナンは、ロンドン公演では交代時期が遅すぎたためミュージカルの構造を人きく変える余裕がなかったが、ニューヨーク公演では『CHESS』に自分の刻印を思う存分おすことができた。テクノロジーを駆使するマイケル・ベネットのスタイルは、人間的な側面に焦点を当てるナンのスタイルに置き換えられた。

さらに、筋立てを強化した新しい台本を作るために、脚本家のリチャード・ネルソンがチームに加えられた。「新しいヴァージョンの方が肉づけが豊かで血が通っている」。ベニーが言った。「おかけで、わかりやすくなった」。

上演場所は、45番街とブロードウェイの角のインペリアル劇場である。ロンドンキャストは1人もブロードウェイ版に出演せず、主役のフローレンス、アナトリー、フレディを比較的に無名のジュディ・クーン、デーヅイッド・キャロル、フィリップ・キャスノフがそれぞれ演じた。ただしアレンジとオーケストレーションは、やはりアンデシュ・エリアスが担当した。

ブロードウェイ版には若干の説明的なセリフと、胸を打つ「サムワン・エルシズ・ストーリー」などロンドン版になかった2曲が追加された。一方オープニングのメラーノの場は、官僚を皮肉った風刺歌「エンバシー・ラメント」とともにカットされた。

ビヨルンとベニーはロンドン上演の経験から多くを学び、こうした変更、追加、削除をうまくこなしたようだ。「どうしたって妥協は避けられない。いつも思いどおりにいくとは限らないんだ。観客に聞こえるかどうか、衣装、装樅など、舞台を左右する要素がミュージカルには無数にあるからね」。ブロードウェイの開幕直前にペニーはこう語っている。「大の領分に口を出してはいけないことも学んだよ。いま舞台の床にちょっと問題があるが、その手当てをする人間はほかにいる。僕らが心配する必要はないんだ」。

だが上演には、彼らが心配しなければならない問題が多数あった。プレビューの最初の1週間、演出者と作詞作曲のトリオは上演のたびに明け方まで話し合いを繰り返して最後の手直しをした。

前売りチケットの出足は好調だったが、4月28日に初日の幕が開いて新聞評が出揃ったとき、災難が襲った。“ブッチャー(殺し屋)”の異名で知られるくニューヨーク・タイムズのフランク・リッチがショーを酷評したのだ。ブロードウェイに振るう批評家の影響力は絶大で、有力ライターの否定的な批評は成功の芽を事実上、摘み取ってしまう。

ショーにはさらに手直しが加えられたが、もはや手遅れだった。わずか8週間の上演で『CHESS』は幕を降ろす羽目になり、上演関係者に衝撃を与えた。ニュ-ヨーク版は華やかさこそ減ったが、筋立てははるかにすっきりして、ロンドン版に勝ると考えられていたのである。

ブロードウェイでは失敗したものの、『CHESS』は全米各地で地元の演劇団体が採り上げ、外国でも上演が相次いだ。コンサート形式の上演も人気が高く、テイム・ライスは1994年、「これまでで最高の上演は、コンサート版だ」とまで述べた。事実、スウェーデンでは『CHESS IN CONCERT』が独自の企画として大成功を収め、選り抜きのスウェーデン人歌手による不変のキャストで公演を続けている。

『CHESS』が世に出てからほぼ27年後の現在(『CHESS IN CONCERT』は29年)、ビヨルン、ティム、ベニーの3人は、曲と歌詞の出来には十二分に満足している。だが、上演ごとに手直しを重ねながら『CHESS』に終始つきまとった問題は、基本的なストーリー構造をだれも完全には整頓できなかったことだと彼らは言う。今でもビヨルン、ベニー、ティムの3人は80年代半ばのオリジナル・コンセプトをもとに『CHESS』の決定版を作り上げるため、作品の再構築に取り組んでいる。テイム・ライスは言う。「僕は絶えず『CHESS』に戻ってきてしまう。これは過去のものにならないミュージカルだ。時代を超えて観客を惹きつける力があると思う」。

FIN


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