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劇団四季 マンマ・ミーア! WATERLOO RADIO

『マンマ・ミーア!』横浜公演!新たなる想いと願い!!

3ヶ月前の今日、劇団四季から正式に発表された『マンマ・ミーア!』横浜公演!!

このまま予定通り行なわれれば「2002年春・上演開始まで、あと9ヶ月」に迫ったことになる。

2016年10月23日日曜日、惜しまれつつも一旦「休止」した『マンマ・ミーア!』。多くのファンからの「再演」の要望の期待に応えて、ついに来年2020年春、3年半ぶりに「復活」「再演」することとなった。

劇団四季『マンマ・ミーア!』千秋楽!これで観納め!?

筆者は劇団四季『マンマ・ミーア!』休止の3年半の間、1999年4月6日~同様、海外の『マンマ・ミーア!』を観に行っていた。シンガポールではかなり日本人も来ていたが、“名物”のスタンディング・オベイションは筆者が立たなければ誰も立たないという現状で正直ガッカリしていた。

今もスタンディング・オベイションが自然に生まれるのは欧州とブロードウェイだけだ。2016年10月に終わった劇団四季『マンマ・ミーア!』の時はスタンディング・オベイションはややおとなしめになっていた。

期待していた映画『マンマ・ミーア!ヒア・ウィー・ゴー』がまさかのトーンダウンしてしまい、ガッカリしていたファンも多かったと思うが、やはり『マンマ・ミーア!』はミュージカルが似合う。今からワクワクしているのは筆者だけではないだろう。

しかし、今回、違うことが1つある。それは浅利慶太先生がいないことだ。生前、浅利先生は筆者に対してこう述べていた。

「『マンマ・ミーア!』は最初(2002年)こそ、全マスコミがスポンサーにつくという異常ぶりを見せたけど、マスコミの誰も彼もが【『マンマ・ミーア!』は半年も持たずに終わるさ】と陰口を叩いていた。正直、悔しかったねえ。マスコミは相変わらずだなあと・・・また裏切られた気がしたよ。しかし、そんな中で東山君(筆者)だけが【浅利先生!絶対に10年は続きますよ】と毎回、僕と会うたびに言ってくれた。これほど嬉しい言葉はなかったよ。しかもきみは『マンマ・ミーア!』やABBAのことで多くの音楽評論家やマスコミ、レコード会社と『たった一人で』戦ってきたのだから本当に頭が下がるよ。何しろ『日本の音楽評論家や関係者』はABBAがデビューした1974年以来40年以上もの長きにわたり『デタラメなABBAの情報』を日本人に言ってきたのだからなあ。呆れるよなあ。そん中、きみは“たった一人”で『ABBAの真実』を直すべく(伝えるべく)、音楽評論家やレコード会社と戦ってきた。きみのような男は、世界を探しても一人もいないよ。随分、辛かっただろう?きみは若いときの僕にそっくりなんだ。(世間には)僕のことを好きな人も多いけど、僕を邪魔だと想っている人も多いんだ。『人がやらないことをやる勇気』を持っている者は残念ながら“英雄”にはなれないなあ、東山君。だから世間のきみへの評価が低いのは誠に申し訳なく思っている。僕はもう四季には居ないけど(劇団四季退団後)、なんとか『マンマ・ミーア!』をもう一度、再開し、東山君や多くの『マンマ』ファンに応えるよう、きみと共に四季に働きかけ続けたいね」。

しかし、浅利先生は『マンマ・ミーア!』横浜公演を観ることなくお亡くなりになった。

筆者は1999年4月6日の『マンマ・ミーア!』ロンドン・プリンスエドワード劇場初演、そして2002年12月1日の『マンマ・ミーア!』四季劇場「海」日本公演から関わってきた“世界で唯一の人物”だ。観に行くための交通費・宿泊代は全部「自腹」。合計60回世界中の『マンマ・ミーア!』を観てきたが、果たして、『マンマ・ミーア!』の取材にいくらつぎ込んだことであろうか?伝えたいのは『マンマ・ミーア!』の面白さを日本全国民に伝えることだ!!あれだけCMを流しても『マンマ・ミーア!』が上演されていたことを知らない人はまだいるのだ。これを読んでいる人もビックリしているだろうが『真実』だ。事実、筆者は“ど真ん中”の「ABBA世代」だが、高校の同窓会に行っても、大学の同窓会に行っても、劇団四季『マンマ・ミーア!』を知らない人が99%いたことにはショックだった。「まだまだ僕自身の手・目で取材し、『真実』を一人でも多くの日本人に伝えなければいけないなあ」とこの20年思って取材してきた。しかしいつも「原稿を書く」のは『マンマ・ミーア!』やABBAの取材さえしたことのない「音楽評論家」達。彼らの取材なしのインターネットで見ただけの感想で、どうして、国民に、『マンマ』ファンに、ABBAファンに、『マンマ・ミーア!』の真実を伝えられるというのか?是非、教えて欲しい。

主催者やスポンサー、レコード会社に言いたいのは「真実を取材している人にこそ、『マンマ・ミーア!』やABBAをきちんと取材している人だけが、ライナーノーツやパンフレットの記事を書いていい権利があるのではないか?」ということだ。

ファンが求めているのは「音楽評論家」の「たわごと」ではない!ネットを見れば、そんなこといくらでも載っているからだ。大事なことは「現実はどうなっているのか?」「今度こそABBAは来日するのか?」「世界の『マンマ』は今、どうなっているのか?」という『誠』の『真実』だ。

ネット情報が全てになりつつある時代、多くの「ウソ」が当たり前のように出回っている。『真実』を見抜いて『マンマ・ミーア!』を再開しない限りは映画のように日本の『マンマ・ミーア!』は「短命」で終わるだろう。

筆者は「自分のためにABBAや『マンマ・ミーア!』の取材」をしたことは一度も無い。全部「無償」「自腹」で35年間、取材し、ABBAオフィシャルファンクラブを守り・運営し、ファンに『臨場感』『真実』を伝えてきた。昨年、4月27日、ABBA自らが「(1983年以来35年間)僕たちは活動停止していただけなんだ。新曲を出すことにしたよ」と突然の発表をし、世界中を驚かせた。

一番驚いたのは『筆者をリンチ、差別、迫害してきた日本のみならず世界中の音楽関係者』だった。なぜならば“世界で筆者のみ”「ABBAは1983年活動停止しただけだ」と“主張を曲げなかった”からだ。その他全員は「ABBAは解散した」と言っていた(一部のイギリスのファンだけ「1982年活動停止した」と言っていたが「1983年活動停止」という主張した筆者とは「年」が違った)。そして昨年6月18日、ABBAとスウェーデンのメディアから『欧州以東(日本・極東)における“唯一の”ABBA評論家』という“称号”をいただいた(記事は下記サイトを参照していただけますと幸いです)。

https://fika.cinra.net/article/201808-abba

マニュアル通りの『マンマ・ミーア!』は3年半前で最後にしていただきたい。今こそ『マンマ・ミーア!』の原点に戻り、“誰もがハッピーになれる”『マンマ・ミーア!』の再構築を望みます。

今後も取材の手を緩めることはしません。9ヶ月後、笑顔で、横浜でお会いしたいですね!皆で笑い合いたいですね。

最後に今年の2月21日付け「日本経済新聞・ウラ全面」に掲載されました記事をご紹介いたします。

これは「第一人称」ですが、記事執筆は日本経済新聞の記者です。

https://r.nikkei.com/persons/%E6%9D%B1%E5%B1%B1%E5%87%9C%E5%A4%AA%E6%9C%97

【ABBAに⼼躍らせ45年】
『復活した北欧の4⼈組 休⽌中の動向も⽇本に伝える』 東⼭凜太朗

1970年代から現在まで、世界中で愛されるスウェーデンの4⼈組「ABBA(アバ)」。代表曲「ダンシング・クイーン」「マンマ・ミーア」は様々な場所で聴かれるが、ほとんどの⼈はグループの実態をよく知らない。私は45年近く彼らを追い続け、昨夏北欧のメディアから「⽇本唯⼀のABBA研究者」と命名された。
2018年4⽉、⻑年活動休⽌状態だったABBAが35年ぶりに復活する、という話題が世界を駆け巡った。82年末に休⽌を発表した当時、再開を期待する声は全くなく、多くの雑誌やテレビが「解散」だと断定した。私はあくまでも「休⽌」だと主張してきたので、うれしさと同時に肩の荷が下りた気がした。

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『⼩学5年で歌に感銘』
初めて聴いたのは、⼩学5年⽣だった1975年。テーマパークの東京サマーランドで流れていた曲の覚えやすいメロディーと、美しいハーモニーに感銘を受けた。レコード店で店員に曲の特徴を伝えると「アイ・ドゥ・アイ・ドゥ」だと判明。既に海外ではヒットしていたが、⽇本では知る⼈ぞ知る曲だった。
ヒット曲を連発し、頂点を極めた80年前後、中⾼校⽣だった私は4⼈に夢中になる。そのうち彼らの⼈となりや歴史が気になり、研究を始めた。

彼らは「ディスコグループ」「ダンスナンバーが得意」と形容されるが、それは⼀⾯的な⾒⽅にすぎない。なぜならギターのビヨルン、ピアノのベニー、ボーカルのアグネタとフリーダの4⼈は、互いに異なるバックグラウンドを持つからだ。ビヨルンはフォーク、ベニーはロック、アグネタがポップ、フリーダがジャズ。誤解されがちなのは、近年ミュージカルや映画を機にリバイバルした「ダンシング・クイーン」の影響だろう。しかし、スペイン⾳楽の影響を感じる「悲しきフェルナンド」など、作⾵は実に多彩である。
成り⽴ちも⾯⽩い。ビヨルンとベニーが66年、公演先で意気投合し、ビヨルンがアグネタ、ベニーがフリーダを連れてくる。69年にビヨルンとアグネタ、78年にベニーとフリーダが結婚。後に離婚するが、グループは続いた。
当初は4⼈の名前を単純に連ねたグループ名だったが、74年に頭⽂字をとってABBAと改称する。76年ごろ、正式には2⽂字⽬の「B」が反転し左右対称になるが、2組のカップルが向き合い仲良く活動するという意味を込めたという。

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『現地に出向き4冊の本』
インターネットのない70年代後半から80年代前半、情報を得るのは⼤変だった。レコード会社や公式ファンクラブが頼みだが、スウェーデンから遠い⽇本には正確な報道が伝わってこない。
83年に活動休⽌すると、レコード会社のディスコメイトが運営していたファンクラブもなくなるという噂。私は落胆していたたまれず、⾃らファンクラブを引き継いで運営したいと申し出た。⾼校⽣の分際で良くそんなことを⾔ったものだ。
その後、私は何度も北欧や⽶国へ出向き、拙い英語で現地突撃取材を試みた。休⽌中も⼥性2⼈はソロで、男性2⼈はミュージカル制作で活躍していた。
私が引き継いだ⽇本のファンクラブはピークの3600⼈から40⼈に会員が激減。だが商社や通信社に勤めながら細々と活動を続け、これまでに「やっぱりABBA︕」(牧歌舎)など⽇本⼈初となるABBA関連書を4冊出版した。

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『⽬標は⽇本ツアー実現』
活動休⽌後、ABBAが話題になった時期が2回ある。1回⽬は92年にベストアルバムが出た時。2回⽬が99年、代表曲を網羅したミュージカル「マンマ・ミーア︕」の世界初演時だ。08年に公開された同作の映画版を通して知った⼈も多い。
ABBAと⽇本との関係は⻑年悪かったが、グループを⽀えるマネージャー、ゴーレル・ハンザーとは頻繁に連絡をとり、昨年にストックホルムの事務所で”謝罪”。関係は復活した。ABBA博物館も訪ねた。
既に録⾳した2つの新曲は秋ごろに発表する予定だという。マドンナやレディー・ガガがABBAに敬意を⽰すなど、現代の⾳楽シーンへの影響も⼤きい。次なる⽬標は彼らに再度会って話を聞き、80年3⽉以来2度⽬となる⽇本ツアーを実現させることだ。
(ひがしやま・りんたろう=作家・ジャーナリスト)


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