「誰だって、その相手になれる。夜はまだこれから、音楽は高鳴っている」
*ABBAのフリーダ・リングスタッドとアグネタ・フォルツコグが、有名なミュージックビデオで「ダンシング・クイーン」を熱唱。|写真:公式「ダンシング・クイーン」ミュージックビデオより
この50年間に一度でもダンスフロアに立ったことのある人なら、ほとんど誰もがABBAの「ダンシング・クイーン」のビートに合わせて踊った経験があるだろう。
音楽とダンスがもたらす解放感、そして若さゆえの限りない自由とエネルギーを歌ったこのキャッチーな曲は、1976年の最初のリリース時に16か国で1位を獲得した。言い換えれば、「世界中のヒットチャートが存在するほとんどあらゆる場所」で大ヒットしたのだ。
その後もABBA人気が再燃するたびに何度もチャートへ返り咲き、デジタル時代に入ってからはSpotifyでのストリーミング再生回数が20億回を突破している。
1970年代に子ども時代を過ごした人々にとって、この曲は、シンプルだった時代、ディスコ、そしてダサさを恥じることなく楽しめた時代を思い起こさせる。
究極のウェディング・ソング
音楽ジャーナリストのデヴィッド・ヘップワースは、2018年の著書『ナッシング・イズ・リアル』で、「結婚式で必ず盛り上がる5曲」の第1位に「ダンシング・クイーン」を挙げている。
ヘップワースによれば、会場には必ずこの曲が大好きな人がいるうえ、「男性たちが、自分はどこか皮肉を込めて踊っているのだ、と自分自身を納得させられる程度にはベタな曲」なのだという。
今なお、この曲は「ギーク・シック」であり続けている。
学校なんかには収まりきらないほどクール。
そして、ダサくなることを一日だけ許してくれる「ダサさの一日パス」のようなものだ。
ディスクジョッキーのピート・ウォーターマンは、DJとしてダンスフロアの客を盛り下げてしまった時でも、「ダンシング・クイーン」をかければ確実に客を呼び戻すことができたと語っている。
当初は「ブーガルー」という仮タイトルで作られた曲としては、なかなかのものだ。
しかも、この曲が生まれたスウェーデンは当時、ポップスよりもフォークや伝統的なシュラーガー音楽で知られていた国だった。
2026年の「ダンシング・クイーン」
今週、「ダンシング・クイーン」は最初のリリースからちょうど50周年を迎える。
しかし、その輝きが失われる兆しはまったくない。
現在でも「ダンシング・クイーン」には、人生の喜びを何の重荷もなく純粋に感じていた、あの瞬間へと人々を一瞬で連れ戻す力がある。
ほんの数分間、あらゆる感覚に入り込んでくる、うなるような「音楽の壁」に包み込まれ、誰も見ていないかのように踊れ、と曲そのものに促されるのだ。
ディスコの常識から外れたテンポ
ABBA研究の第一人者として長年活動してきたカール・マグヌス・パルムは、近著『ABBAアット50』の中で、この曲の共作者でABBAのメンバーでもあるビヨルン・ウルヴァースが、「ダンシング・クイーン」がこれほど大きなディスコ・ヒットになったことに驚いていたと記している。
この曲のテンポは1分間に約100拍。
一方、「理想的」なダンス・ナンバーは毎分110拍程度だという。
しかし、そんなことを気にする人はいなかったようだ。
「ダンシング・クイーン」は、聴く人に伝染していくような生命の賛歌だった。自然に足を動かし、約3分間だけ、誰もが自分を解放して気持ちを高揚させることができた。
男性にとっては、「誰だって、その相手になれる」という歌詞が、1970年代の暗い照明とミラーボールに彩られたディスコのダンスフロアでは、男性などほとんど「いてもいなくてもいい、代わりのきく付属品」であり、バッグを持っている時に最も役立つ存在だった、という厳しい現実を今なお思い出させる。
長い時間をかけて誕生した名曲
ABBAは、この代表曲が誕生する以前にも数多くのチャート・ヒットを記録していた。
しかし、「ダンシング・クイーン」はABBAにとってアメリカで初めて1位を獲得した曲となった。
作曲はビヨルン・ウルヴァースとベニー・アンダーソン。
作詞はビヨルンとABBAのマネージャー、スティッグ・アンダーソンによる共同作業で、曲のタイトルを考案したのはスティッグだった。
パルムの著書によると、ABBAのメンバーたちはこの曲が特別なものになることを理解しており、自分たちが納得してリリースできるバージョンに仕上がるまで、5か月もの時間を費やした。
パルムはこう記している。
「ABBAがもともと非常に高い完成度を求めるグループだったことを考慮しても、『ダンシング・クイーン』はスタジオで異例なほど多くの手直しを受けた」。
さらに、
「この曲には当初、現在のレコーディングから完全に削除された別のヴァースが冒頭に存在していた。また、現在では最初のヴァースとして知られている『Friday night and the lights are low』の部分も、もともとはレコーディングのずっと後半に登場していた」
という。
正式発売に先立ち、「ダンシング・クイーン」は1976年6月、スウェーデン国王カール16世グスタフとシルヴィア・ソマラートの結婚を祝うロイヤル・ウェディング・ガラでライブ披露された。
これは国王本人からの要望によるものだった。
カルチャーを象徴する一曲
さまざまな意味で、「ダンシング・クイーン」は1970年代のディスコ時代が到達した必然的な頂点だった。
同じ時代を象徴したものには、ビー・ジーズによる『サタデー・ナイト・フィーバー』のサウンドトラック、ドナ・サマー、そして「アイ・ウィル・サヴァイヴ」で知られるグロリア・ゲイナーなどがある。
社会研究者の中には、「ダンシング・クイーン」がインクルーシビティ(包摂性)を称える歌だと指摘する人もいる。
ある報告書は、次のように結論づけている。
「ディスコ時代を特徴づけていたのは、一体感と受容の精神であり、さまざまな背景を持つ人々をダンスフロアに集わせた」
そして、
「この曲はまさにその精神を体現しており、音楽とダンスを通じて人生を祝う輪の中へ、すべての人を招き入れている」
という。
また、この曲はABBAの女性ボーカリスト、アグネタ・フォルツコグとフリーダ・リングスタッドが生み出す歌声の力が、一つの頂点に達した作品でもあった。
二人ともソロ・シンガーとして強力な歌声を持っていたが、二人の声が重なった時、それはまるで高く舞い上がる一つの楽器のように溶け合った。
カール・マグヌス・パルムは以前の著書『ブライト・ライツ・ダーク・シャドウズ』で、「ダンシング・クイーン」におけるアグネタとフリーダの歌声について、
「音の風景をレーザーのように切り裂く」
と表現している。
そしてパルムは、
「おそらく、これまで録音された中で最高のパーティー・アンセムだ」
と結論づけている。
さらにこう続ける。
「現在から振り返ると、この曲が最初に発売されるわずか数年前まで、これを生み出した同じ人々が、平凡なシュラーガーの小曲を作ることに多くの時間を費やしていたとは、なかなか信じられない」。
意外な「ダンシング・クイーン」ファン
「ダンシング・クイーン」のファンは、実に多種多様だ。
グランジ・バンド、ニルヴァーナのフロントマンだった故カート・コバーンがABBAのファンだったことはよく知られており、ツアーバスの中で「ダンシング・クイーン」を一緒に歌っていたという。
フー・ファイターズのリーダー、デイヴ・グロールも、この大ヒット曲を生み出したABBAの卓越したソングライティング能力を公に称賛している。
そして、なんと故英国女王エリザベス2世でさえ、BBCラジオからこの曲が流れると、思わず踊り出すことがあったと伝えられている。
まさに――
本物の「ダンシング・クイーン」だ。



