ABBA JAPANのホームページです。

ABBAファンのみならず、
ABBA初心者の方も楽しめるそんなサイトです。
充分にご堪能下さい。

劇団四季 マンマ・ミーア! WATERLOO RADIO

ABBAが教えてくれる、キャリアの「第二幕」

ABBAは音楽史上最大級のポップグループとなり、約40年にわたって活動の表舞台から姿を消した後、メンバー4人が誰ひとり実際のステージに立たないコンサートで復帰しました。

そして、人々はその公演に夢中になっています。

ロンドンに専用施設として建設されたABBAアリーナでは、アグネタ・フォルツコグ、ビヨルン・ウルヴァース、ベニー・アンダーソン、アンニ=フリード・リングスタッドのデジタル版がライブバンドとともにパフォーマンスを繰り広げ、観客は「ダンシング・クイーン」「マンマ・ミーア」「恋のウォータールー」「ザ・ウィナー」を一緒に歌っています。

4人のミュージシャンは、現在70代から80代。一方、デジタル版の彼らは、1970年代の全盛期そのままの姿をしています。音楽はおなじみのものですが、演出は並外れています。観客が体験するのは、ABBAが1974年に初めてユーロビジョンのステージに立った当時なら、SFのように聞こえたであろう世界です。

彼らは事実上、「ABBAであり続けるための新しい方法」を生み出したのです。

そしてそれは、彼らの全キャリアの中で、最も興味深い功績なのかもしれません。

成功したバンドの多くは、いつか難しい問いに直面します。音楽を生み出した本人たちが、その音楽を演奏することに人生を費やしたいと思わなくなったら、どうなるのでしょうか。

通常の選択肢は、おなじみのものです。再結成ツアーを発表する。もう1枚アルバムを録音する。記念盤を発売する。あるいは、過去の作品を、往年の名曲を流すラジオや懐かしい曲を集めたプレイリストの定番として定着させる。

ABBAは、それよりもはるかに風変わりな道を選びました。

何十年も別々の人生を歩んできた4人に、20代や30代の頃のようなツアーバンドへ戻ることを求めずに、復帰する方法を見つけたのです。

しかも驚くべきことに、この最新の章は、グループの歴史にいくつもある「第二幕」のひとつにすぎません。

彼らがどのようにデジタルコンサートの常設公演へたどり着いたのかを理解するには、ABBAの将来が今よりはるかに不確かに見えていた時代へ、さかのぼる必要があります。

1982年、グループは静かに共同での活動を停止しました。

大規模なさよならツアーも、ひとつの時代の終わりを告げる劇的なラストコンサートも、周到に準備された別れの演出もありませんでした。

10年にわたる驚異的な国際的成功の後、4人のメンバーは徐々に別のプロジェクトへと向かっていきました。

当初の活動期における最後のスタジオアルバム『ザ・ヴィジターズ』は、1981年に発売されていました。彼らを有名にした、きらめくようなポップスと比べると、より暗く、内省的な作品でした。

「ワン・オブ・アス」や「ホエン・オール・イズ・セッド・アンド・ダン」といった曲には、メンバー同士の私生活での関係が大きく変化したグループの、複雑な感情が映し出されていました。

ABBA内の2組の結婚は、どちらも終わりを迎えていました。

ビヨルンとアグネタは離婚し、ベニーとフリーダも同じ道をたどりました。4人はその後も一緒に仕事を続けましたが、バンドを取り巻く空気は、「恋のウォータールー」や「ダンシング・クイーン」を生み出した頃とは異なっていました。

音楽もまた、変化していました。

1980年に発表された「ザ・ウィナー」は、今なおポピュラー音楽の中でも、とりわけ胸を締めつける別れの歌です。アグネタの歌唱は圧巻で、平静さと悲嘆の間を行き来し、その歌声を包み込むようにアレンジが盛り上がっていきます。

曲を書いたのはビヨルンで、聴き手が自然と2人の結婚の終わりを重ねたのも無理はありません。ただし本人は、歌詞が自分たちの離婚をそのまま描いたものではないと語っています。

それも、この録音をこれほど特別なものにしている理由のひとつです。

楽曲が単純な自伝ではなくても、そこに込められた感情は、きわめて個人的なものに感じられるのです。

1982年にABBAが「ザ・デイ・ビフォア・ユー・ケイム」を録音する頃には、彼らの音楽は、驚くほど抑制された表現へと変わっていました。

催眠的な電子音のアレンジに乗せて、アグネタがありふれた日常の行動を語っていきます。その描写は、次第に心をざわつかせる感情的な重みを帯びていきます。

グループの作品群の中でも、とりわけ異色の録音です。

そして、驚くほど現代的に響きます。

しかし、このシングルはイギリスで大ヒットには至らず、グループは当初の活動期の終わりに近づいていました。

1980年代の大半、ABBAは、ひとつ前の時代を懐かしく思い出させる存在になる運命にあるかのようでした。

レコードは売れ続けていましたが、大衆文化は別の方向へ進んでいました。

シンセポップ、ニューウェーブ、ヒップホップ、ヘヴィメタル、そして新世代のポップスターたちが話題の中心を占めていました。

ABBAのきらびやかな衣装や、明るいテレビ出演の姿は、過ぎ去った音楽の時代の記念品のように感じられることもありました。

けれども、楽曲たちは次の機会を待っていたのです。

その機会が訪れたのは、1992年でした。

ヴィンス・クラークとアンディ・ベルによるイギリスのシンセポップ・デュオ、イレイジャーが、ABBAの楽曲を独自に解釈した4曲入りEP『ABBAエスク』を発表しました。

この作品は大成功を収め、全英シングルチャートで1位を獲得しました。

それは、ABBAと聞いて親のレコードコレクションを思い浮かべていたかもしれない人々に、ABBAの優れたソングライティングを紹介する作品となりました。

そして、後にグループの評価において、ますます重要になっていく事実を明らかにする一助となりました。

ABBAの曲は、ほとんどどのような音楽的な環境に置かれても、その魅力を保てるのです。

エレクトロニック・ポップ、ダンスミュージック、ロックのアレンジ、アコースティック演奏、そして凝った舞台作品。それぞれが、楽曲に備わる異なる魅力を引き出すことができました。

メロディーには、さまざまな世界へ渡っていけるだけの強さがありました。

同じ年の後半、『ABBAゴールド:グレイテスト・ヒッツ』が発売されました。

この作品は、ポピュラー音楽史上、最も成功したコンピレーションアルバムのひとつになりました。

ABBAとともに育った聴き手にとっては、おなじみの曲を集めた、抗いがたい魅力を持つ作品でした。

若い世代にとっては、ABBAを知るための、きわめて効率のよい入門編でした。

「ダンシング・クイーン」「ノウイング・ミー、ノウイング・ユー」「テイク・ア・チャンス」「悲しきフェルナンド」「SOS」「マンマ・ミーア」が1枚に収められ、まるでキャリアを通じてヒット曲ばかりを書き続けてきたバンドであるかのような印象を与えました。

ある意味、それこそが優れたベストアルバムにできることです。

活動の空白や流行の変化、あまり成功しなかった作品を取り除き、最も力のある楽曲に物語を語らせるのです。

『ABBAゴールド』は、グループの作品群に新たな顔を与えました。

それらは単なる1970年代の古いレコードの集まりではなく、購入し、パーティーで流し、贈り物にし、何度でも魅力を再発見できるアルバムになったのです。

このコンピレーションは、事実上、ABBAを次の世代へ紹介しました。

そして、注目すべきひとつの流れを定着させることにもつながりました。

グループは、新曲を録音したり、ステージへ復帰したりしなくても、莫大な商業的成功を収められるのです。

常に人前に出続けるよう、アーティストが求められがちな音楽業界では、これは珍しい強みです。

ABBAが姿を見せないこと自体が、彼らの魅力の一部になりました。

ツアーで毎晩、若い頃の自分たちと競い合う必要はありませんでした。

「ダンシング・クイーン」と比較される新作を発表する必要もありませんでした。

そして、当時のパフォーマンスが持っていた独特の一体感を、そのまま再現できると観客に納得させようとする必要もありませんでした。

過去の楽曲が、その役割を果たしていたのです。

そこへ、映画が加わりました。

1994年、2本のオーストラリア映画が、ABBAにまたしても予想外の文化的な脚光をもたらしました。

『プリシラ』は、パフォーマンスとアイデンティティーを華やかに、そして愛情を込めてたたえる物語の一部として、ABBAの音楽を用いました。

『ミュリエルの結婚』は、ABBAを物語の中心に据え、その音楽を、主人公にとっての現実逃避、空想、そして心のつながりの源にしました。

これらの映画は、ABBAの曲を、気恥ずかしさを感じることなく楽しんでよいものとして扱いました。

それは大きな変化でした。

長年、批評家の中には、彼らの音楽は洗練されすぎている、商業的すぎる、あるいは明るすぎるため、真剣に取り上げる価値がないと軽視する人もいました。

映画は、そうした見方を覆す助けとなりました。

楽曲の魅力には、抗えませんでした。

そして、聴き手はもう、ABBAを好きであることに引け目を感じる必要がなくなったのです。

この文化的な再評価が、さらに大きな変貌への扉を開きました。

1999年、『マンマ・ミーア!』がロンドンのウエストエンドで開幕しました。

このミュージカルは、ABBAの曲をもとにオリジナルの物語を組み立て、恋愛、家族、友情、そして年齢を重ねることの複雑さを描きました。

ビヨルン・ウルヴァースとベニー・アンダーソンも制作に参加し、楽曲をまったく異なる演劇の世界へと導く手助けをしました。

それは、実に見事な着想でした。

ABBAの録音には、明るく踊りやすいアレンジの曲であっても、常に感情豊かな物語が込められていました。

「ザ・ウィナー」のような曲は、失恋の痛みを担うことができます。「スリッピング・スルー」は、子どもの成長を見守る複雑な思いを表現できます。「ダンシング・クイーン」は、若さと自由をたたえる曲になり得ます。

ミュージカルは、それらの曲に、新たな登場人物と状況を与えました。

そして、観客はそれを歓迎しました。

『マンマ・ミーア!』は、世界各地で上演される、国際的な演劇現象となりました。

メリル・ストリープ、アマンダ・セイフライド、ピアース・ブロスナン、コリン・ファースが出演した2008年の映画版は、さらに膨大な数の観客へ楽曲を届けました。

続いて2018年には、続編『マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー』が公開されました。

この時点で、ABBAは驚くべきことを成し遂げていました。

彼らの音楽は、成功を収める一大エンターテインメント事業の土台となっていたのです。

元のグループ自身が演奏する必要はありませんでした。

楽曲は、舞台作品、映画、サウンドトラック、関連商品、そして数え切れないほどの新しい解釈を支えることができました。

そして、それぞれの新たな作品が、聴き手をオリジナルの録音へと立ち返らせました。

これは、ABBAの「第二幕」の中でも、特に興味深い点のひとつです。

彼らは、すでに人々に愛されている音楽から、新しい体験を生み出す方法を繰り返し見つけてきました。

ある曲は、1976年にはラジオのヒット曲となり、1992年にはベストアルバムの人気曲となり、1999年にはミュージカルのナンバーとなり、2008年には映画の一場面を彩り、さらに数十年後にはデジタルコンサートで披露される曲になり得るのです。

録音された楽曲の、文化の中での命は広がり続けました。

そしてグループには、ほかの人々による再解釈を受け入れられるだけの、作品への自信がありました。

どのアーティストにとっても、それは強みとなります。

優れた曲は、最初に発表された当時の状況が失われた後も、新たな聴き手を見つけ続けることができるのです。

ABBAの楽曲は、ほかのミュージシャンたちにも、ますます大きな影響を与えるようになりました。

マドンナの2005年のシングル「ハング・アップ」が、「ギミー!ギミー!ギミー!」の印象的な器楽フレーズをサンプリングしたことは、よく知られています。

このサンプリングによって、ABBAを象徴する音楽的なアイデアのひとつが、現代のダンスポップのヒット曲へと結びつきました。

その結果、曲は世界的な大ヒットとなりました。

そして、ABBAの制作技術とメロディーに対する感覚が、現代のポップスでも通用し続けていることを示しました。

彼らは、当初の活動期には必ずしも明らかでなかった形で、時代を先取りしていたのです。

ベニーとビヨルンのソングライティングは、洗練された和声のアイデアと、自然に生まれたように聞こえるメロディーを組み合わせていました。

アグネタとフリーダの対照的な歌声は、独特のボーカルの響きを生み出しました。

プロデューサー兼エンジニアのマイケル・B・トレトウは、聴けばすぐにABBAとわかる、幾重にも重ねられたスタジオサウンドの構築を支えました。

アレンジは緻密に組み立てられ、ボーカルや楽器の音を何層にも重ねることも珍しくありませんでした。

ラジオではシンプルに聞こえる曲も、実際には、驚くほど細かなスタジオ作業の成果であることが多かったのです。

後の世代のプロデューサーやミュージシャンが録音を研究するにつれて、その職人技は、よりはっきりと認識されるようになりました。

ABBAの音楽は、長く残るだけの作りを備えていました。

そしてグループが再結成について話し合い始める頃には、その評価は劇的に変わっていました。

彼らはもはや、単に1970年代に成功したポップグループではありませんでした。

世界の音楽文化に、恒久的な居場所を得ていたのです。

それでも4人は、従来型のツアーへ戻ることには、依然として消極的でした。

そのためらいは、理解できます。

彼らはすでに、国際的な成功がもたらす負担を経験していました。

1977年と1979年のツアーには、膨大な数の観客、休みなく続く移動、そして大きな重圧が伴っていました。

それぞれに、別の生活とキャリアも築いていました。

ベニーとビヨルンは、『CHESS』や『クリスティーナ』など、舞台のための音楽を書き続けました。

アグネタとフリーダは、ソロ活動や、それ以外の関心事に取り組みました。

ABBAとして再びツアーに出ることは、何十年も前に終わった仕事上の関係を、再構築することを意味していました。

そして、年齢の問題も避けては通れませんでした。

観客は、記憶の中にある姿そのままの4人に会いたいと思っていたかもしれません。

しかし、時は流れていたのです。

やがてグループは、当初の成功の絶頂期には、誰も想像できなかった解決策を見つけました。

2016年、ABBAはデジタル・エンターテインメントのプロジェクトに取り組み始めました。

そのアイデアは発展し、後の『ABBA Voyage』となりました。

従来型の再結成ツアーでメンバーに演奏してもらうのではなく、若い頃の外見をもとに、4人のデジタル版を制作するという構想でした。

その技術には、入念な準備が必要でした。

メンバーはモーションキャプチャーの収録に参加し、インダストリアル・ライト&マジックの視覚効果の専門家たちと協力して、デジタルでのパフォーマンスづくりを支えました。

このプロジェクトは、高度なデジタル映像、精巧な照明、綿密に設計された舞台演出、そしてライブバンドを組み合わせたものでした。

技術的に、途方もなく大きな取り組みでした。

しかもグループは、単に自分たちの姿を、ほかの誰かの公演に使用する許可を与えただけではありませんでした。

オリジナルメンバー自身が、その体験を形づくる作業に関わっていたのです。

その創作面での参加が、プロジェクトを本物のABBAへと結びつけました。

技術は彼らの外見を再現できても、芸術的な個性は、やはりその音楽を生み出した本人たちからもたらされていたのです。

コンサートの開幕前、グループはさらにもうひとつ、驚きを届けました。

2021年、ABBAは40年ぶりとなる新作スタジオアルバム『ヴォヤージ』を発表しました。

驚くべき発表でした。

何十年もの間、ファンは再結成の可能性は低いと聞かされてきました。

それが今、グループはまったく新しいアルバムを録音したのです。

収録曲には、「アイ・スティル・ハヴ・フェイス・イン・ユー」「ドント・シャット・ミー・ダウン」「ジャスト・ア・ノーション」などがありました。

おなじみのボーカルハーモニー、メロディーの構成、細かな制作上の工夫によって、その録音は、紛れもなくABBAの音に聞こえました。

同時に、そこには時の流れも映し出されていました。

「アイ・スティル・ハヴ・フェイス・イン・ユー」は、その歌詞をグループの長い歴史を振り返るものとして受け止めることができたため、とりわけ胸を打つ曲でした。

驚異的な成功、私生活での変化、そして何十年にも及ぶ別々の活動を経験した4人のミュージシャンが、再び一緒に音楽を作っていました。

しかも彼らは、1974年当時と同じ自分たちであるかのように振る舞ってはいませんでした。

アルバムは全英チャートで初登場1位となり、国際的にも大きな商業的成功を収めました。

また、ABBAの新作スタジオアルバムが発売される瞬間を、それまで一度も経験していなかった聴き手にも、グループを届けました。

若いファンにとって『ヴォヤージ』は、ABBAのアルバム発売を、現在進行形の出来事として体験できる初めての機会でした。

当初のレコーディング活動が、そうした聴き手の多くが生まれる前に終わっていたバンドとしては、驚くべき成果です。

そして2022年5月、ロンドンで『ABBA Voyage』が開幕しました。

会場はこの公演のために専用に建設され、制作者たちはデジタルコンサート体験を中心として、空間全体を設計することができました。

観客が足を踏み入れたのは、技術、照明、音響、舞台演出が一体となり、ABBAが実際に目の前で演奏しているかのような感覚を生み出す空間でした。

デジタルの出演者たちは、若い頃の姿で登場しました。

その傍らでは、ライブバンドが演奏しました。

そして楽曲は、大規模なコンサートにふさわしいスケールと興奮を伴って披露されました。

その結果、公演は熱烈な評価と、世間の大きな関心を集めました。

2026年4月までに、累計観客動員数は400万人を突破しました。

最も有名な4人の出演者が実際にはステージに立たない公演としては、驚異的な成果です。

そしてそれは、ライブ・エンターテインメント業界にとって、新たな可能性を示しています。

今では、アーティストが街から街へ移動したり、毎晩ステージに立ったりしなくても、本人たちの創作面での参加を軸に、成功するコンサート体験を作り上げることができるのです。

この公演はまた、専用会場がいかにアーティストのアイデンティティーの一部になり得るかも示しています。

ABBAアリーナは、単にグループが出演する場所として選ばれた建物ではありません。

ショーに欠かせない一部なのです。

技術、舞台設計、観客の体験が、公演の中で一体化しています。

それによって、従来のツアー日程では再現が難しい機会が生まれます。

経済的な仕組みも変わります。

通常のツアーでは、輸送、搬入、設営、移動の費用が繰り返し発生します。

常設公演であれば、制作費の一部を、ひとつの会場で行なう多数の公演に分散させることができます。

もちろん、『ABBA Voyage』のように技術的に高度な公演には、多額の初期投資と、継続的な運営費も必要です。

出演者がデジタルになったからといって、ミュージシャン、技術スタッフ、会場従業員、警備員、保守担当者が不要になるわけではありません。

それでも、このモデルは、パフォーマンス、技術、そしてアーティストがその場に身体を伴って存在することの関係に、別のあり方を提示しています。

ABBAは、その関係がどのような形になり得るかを示す、最も広く知られた例のひとつとなりました。

ほかのアーティストや、故人の権利を管理する側も、注意深く見守っています。

技術を用いてパフォーマンスを再現したり、再解釈したりするという考え方は、創作上の決定権、本物であることの意味、本人の同意、そしてライブ・エンターテインメントの未来について、当然の問いを投げかけます。

デジタルでのパフォーマンスを許可する権利は、誰が持つべきなのでしょうか。

アーティストの姿は、どのように使われるべきなのでしょうか。

本人がすでに亡くなっていて、判断に参加できない場合は、どうなるのでしょうか。

技術が発展するにつれて、これらの問いは、ますます重要になっていきます。

ABBAのプロジェクトには、オリジナルメンバー自身が制作に協力したという、特有の強みがあります。

出演者たちは、死後に過去の映像だけから再構築されたのではありません。

本人たちが、デジタル体験の開発に参加しました。

そしてこの公演は、元のバンドの代用品ではなく、彼らのキャリアの新しい章として設計されました。

創作面で本人たちが主導権を持っていたことも、このプロジェクトを特別なものにしている理由のひとつです。

しかし、ABBAの「第二幕」で最も興味深いのは、技術ではありません。

辛抱強さです。

1970年代への郷愁が高まり始めたときも、グループは急いで再結成しませんでした。

ベストアルバムが売れるたびに、再結成を発表する必要もありませんでした。

彼らは、音楽が異なる形式を通じて新たな聴き手を見つけていくことを受け入れました。

そして、新たな姿で成功するたびに、楽曲の力はさらに強くなっていきました。

『ABBAゴールド』は、ヒット曲を、いつまでも聴き継がれるコレクションへと変える助けになりました。

『マンマ・ミーア!』は、楽曲を舞台で語られる物語へと変えました。

映画は、新しい世代へと楽曲を紹介しました。

『ヴォヤージ』は、ファンに新しい録音を届けました。

そして『ABBA Voyage』は、ミュージシャンたちが従来型のツアーへ戻らなくても成立する、コンサート体験を生み出しました。

それぞれの章が、異なるものを提供しました。

そして、すべてが同じ根本的な財産を中心に築かれていました。

楽曲です。

だからこそABBAは、キャリアの後半について考えるミュージシャンにとって、きわめて興味深い実例なのです。

彼らは、アーティストの創作人生が、ブレイクから人気の絶頂を経て、徐々に衰退するという一直線の道を歩む必要はないことを示しました。

過去の作品は、再発見されることがあります。

曲は、新たな文化的な文脈を得ることがあります。

舞台作品は、オリジナルのレコードを買ったことのない人々へ、音楽を届けることができます。

そして技術は、音楽が録音された当時には存在しなかった、パフォーマンスの可能性を生み出すことができます。

大切なのは、再発見する価値のあるものを持っていることです。

ABBAの成功は、卓越したソングライティング、丁寧に作り込まれた録音、そしてひと目で、ひと聴きでわかる芸術的な個性の上に築かれていました。

そうした土台がなければ、コンピレーション、ミュージカル、映画、デジタルコンサートが生かせるものは、はるかに少なかったでしょう。

「第二幕」が成功したのは、元の音楽が魅力を失わなかったからです。

そしてここで、ABBAのとりわけ異例な点のひとつに行き着きます。

何十年もの間、グループは、多くのファンが望んでいた従来型の再結成に応じませんでした。

大衆文化の一部であり続けるために、過去を再現する必要はなかったのです。

その代わりに彼らは、過去を新しい何かの一部にする方法を見つけました。

そこには、味わい深い巡り合わせがあります。

愛、失恋、記憶、そして時の流れを歌った曲で知られるバンドが、後年のキャリアの多くを、自分たちの歴史を通じて、その同じテーマを探ることに費やしてきたのです。

1981年に「ホエン・オール・イズ・セッド・アンド・ダン」――「すべてを語り、すべてを終えたとき」――を録音した人々は、やがて、語るべきことも、なすべきことも、まだ相当残っていると気づきました。

かつてブライトンのユーロビジョンのステージに立った4人のミュージシャンは、国際的なスターとなり、別々の道を歩み、何十年もの間、自分たちが同行しなくても、楽曲が世界中へ渡っていくのを見守ってきました。

そして、新しい音楽と、再結成のあり方を捉え直すコンサートを携えて戻ってきました。

観客は、それに応えました。

ABBAの最も偉大な「第二幕」は、ツアーが終わっても、バンドが別れても、最初に名声を得た時代が過ぎても、キャリアを終わらせる必要はないという発見なのかもしれません。

音楽は、生き続けるための新たな場所を見つけていけるのです。

そして、楽曲に十分な力があれば、その可能性は驚くほど大きくなります。

1974年、ABBAは大胆な衣装に身を包み、「恋のウォータールー」でユーロビジョンを制して、世界の観客にその存在を知らしめました。

2026年になっても、人々はその同じ4人のミュージシャンのパフォーマンスを見るために、チケットを買っています。ステージ上の出演者がデジタルであっても、です。

驚くべき旅路です。

そして、その2つの時点の間のどこかで、ABBAは、過去の時を止めようとせずに、成長し続ける方法を見つけました。

物語の中心にあったのは、いつも音楽でした。

今も、そうです。

そして、キャリアの多くを時の流れについて歌うことに費やしてきたグループは、自分たちの時間が尽きてしまわないようにする、実に想像力豊かな方法を見つけたのです。

What ABBA Can Teach You About Second Acts


ホームページ作成ホームページ制作京都