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【連載①】CHESS物語

第1章:ファースト・ムーヴス

ミュージカル『CHESS』の物語は1972年にさかのぼる。この年、ティム・ライスは、レイキャビクで行なわれたボリス・スパスキーボビー・フィッシャーによる世界CHESS選手権に強い関心を抱いた。彼は対局そのもののドラマ性だけでなく、その背後で繰り広げられていた、アメリカとソビエト連邦(U.S.S.R.)の覇権争いにも心を奪われたのである。それは、彼が東西対立というテーマに芸術的な興味を持つきっかけとなった、別の緊張の場面を思い起こさせるものだった。それは1962年のキューバ危機に関連して行なわれた、首相ニキータ・フルシチョフと大統領ジョン・F・ケネディの会談であった。

ティムはまもなく、CHESS・トーナメントの世界を舞台に物語を設定することの演劇的可能性について考え始めた。彼は、このような極めてハイレベルなスポーツ・イベントに関わる人々の個性や人間関係を描くことで、東西冷戦下の緊張や陰謀を象徴的に表現できると考えたのである。このアイデアは長年にわたり、単なるアイデアのまま温められ続け、その間に他の大きなプロジェクトが構想され、発展し、完成していった。

1944年にバッキンガムシャーで生まれたティムは、当初は法律事務所で見習いとして働いていたが、すぐにそれが自分の進むべき道ではないと悟った。その後、レコード会社のA&R部門で働くようになり、数年間その職に就いた。1965年、彼はアンドリュー・ロイド=ウェバーと引き合わされ、やがて二人は、基本的にはポップソングを書くという形で共同作業を始めた。

彼らの最初のミュージカルへの挑戦は、ドクター・バーナードの生涯を題材にした『ザ・ライクス・オブ・アス』だったが、作品はうまく軌道に乗らず、40年間上演されないまま眠り続けた。最終的にこの作品が舞台化されたのは、2005年7月9日、アンドリュー・ロイド=ウェバーのシドモントン・フェスティバルにおいてである。

次のプロジェクトが『ジョセフ・アンド・ザ・アメイジング・テクニカラー・ドリームコート』で、もともとは学校公演のために書かれた短い作品だった。しかしこの作品はすぐに独自の生命を持ち、数年にわたって拡張され、最終的には本格的な長編ミュージカルへと成長した。その後、二つの大成功作が、まずコンセプト・アルバムとして発表される。1970年の『ジーザス・クライスト=スーパースター』と、1976年の『エビータ』である。舞台版はそれぞれ1971年と1978年に上演された。

ティム:
「偉大なCHESS・プレイヤーたちの人生は、常に刺激的でドラマに満ちています。私は1972年にレイキャビクで行なわれた、ボリス・スパスキーとボビー・フィッシャーの世界選手権によって、CHESSに完全に魅了されました。その後、アイデアが形を取り始めたのです。1979年までに、私は、アメリカ人プレイヤーに勝利した直後、ソビエトのCHESS王者が西側へ亡命するという物語のあらすじを書き上げていました。

この物語では、フィッシャーやスパスキーの人物像やエピソードだけでなく、さらに多くの要素を取り入れました。ヴィクトル・コルチノイは、実際に西側へ亡命したチェス・プレイヤーであり、その結果、彼とアナトリー・カルポフ(国内にとどまった“模範的”なソビエト人)との世界タイトル戦は、政治的駆け引き、苦々しさ、激しい中傷、ほとんど茶番に近い状況、そして少しのCHESSまでが入り混じったものとなりました。これらはすべて、ドラマティックなミュージカルにとって非常に貴重な素材だったのです」。

1979年までに、ティムは『CHESS』の構想を基本的なプロットへと発展させ、『エビータ』の次のプロジェクトとしてアンドリュー・ロイド=ウェバーに提案した。しかしアンドリューは、T・S・エリオットの猫を題材にした詩に音楽を付けるという自身のプロジェクトに着手しており、作詞家を必要としない作品だったため、当面『CHESS』を検討する余裕がなかった。

ティムは『CHESS』や他のアイデアについて複数の協力者候補と話をしたが、いずれも本格的な進展はなく、『CHESS』は宙に浮いたままだった。そんな中、彼は自分の不調を、ニューヨークの演劇プロデューサー、リチャード・ヴォスに何気なく話した。するとヴォスは、ABBAのツアー・プロモーターであるトーマス・ヨハンソンから、世界的ヒットを連発してきたソングライターでありバンド・メンバーでもあるビヨルン・ウルヴァースベニー・アンダーソンが、舞台ミュージカルを書くことに興味を持っていると聞かされていたのだった。

ビヨルン・ウルヴァースベニー・アンダーソンは、1964年に出会った時点ですでに長年ポップ・ミュージックの世界で活動しており、スウェーデンのチャートではかなりの成功を収めていた。ベニーは10歳のときに独学でピアノを学び、それ以来ずっと演奏と作曲を続けてきた。彼が大きな名声を得たのは、キーボード奏者としてヘップ・スターズに加入してからである。ビヨルンは、スカンジナビアで大成功を収めたフーテナニー・シンガーズで、初めて名声を味わった。

二人はそれぞれのバンドのツアー中に出会い、そこから音楽史上でも屈指の多作かつ成功したソングライティング・パートナーシップが始まった。その後ほどなくして、二人はそれぞれ別の才能ある音楽アーティストと出会う。ビヨルンはアグネタ・フォルツコグと、ベニーはアンニ=フリード・リングスタッドと出会ったのである。やがて、ビヨルンとベニーの楽曲に彼女たちの素晴らしい歌声を使うというアイデアが持ち上がった。この組み合わせは瞬く間に成功を収め、シングル「ピープル・ニード・ラヴ」はスウェーデンのチャートを駆け上がった。当初は気軽なサイド・プロジェクトとして考えられていたこのカルテットは、やがて彼らの人生とキャリアの中心となっていく。

世間は彼らの音楽を愛し、彼らはアグネタ、ビヨルン、ベニー、アンニ=フリードとして活動を始めた。便宜上、マネージャーのスティッグ・アンダーソンは彼らを頭文字で呼ぶことが多くなり、次第に「ABBA」という名前が定着していった。やがて正式にこの名が採用され、世界で最も成功したポップ・バンドのひとつが誕生したのである。

グループは1974年、楽曲「恋のウォータールー」でユーロビジョン・ソング・コンテストに出場し、見事優勝した。一夜にしてというわけではないが、ほどなく世界中が、このスウェーデンの4人組が生み出す感染力のあるメロディとハーモニーをもっと聴きたいと渇望するようになった。その後の数年間、彼らは「エス・オー・エス」「悲しきフェルナンド」「ノウイング・ミー、ノウイング・ユー」「マネー、マネー、マネー」「ダンシング・クイーン」「きらめきの序曲」「テイク・ア・チャンス」「スーパー・トゥルーパー」「ザ・ウィナー」といったヒット曲で、世界中のチャートからほとんど姿を消すことがなかった。

1980年代初頭になると、あまりにも成功したグループであるがゆえの重圧と繰り返しに、二人のソングライターは次第に退屈を覚えるようになった。3分程度のポップソング以上の長さの作品を書きたいという思いは、以前から彼らの中にあった。

ベニー/ビヨルン:
「ABBAとしては本当に素晴らしい成功を収めてきたし、そろそろ別のことに挑戦する時期だと感じていました。ただ、ミュージカルを書くなら、この分野に非常に経験豊富な人物と組まなければ、あまりにも多くの失敗をしてしまうとも分かっていました」。

実際、彼らはすでに20分ほどのミニ・ミュージカルを作曲しており、それは1977年のワールド・ツアーの一部として上演された。『ザ・ガール・ウィズ・ザ・ゴールデン・ヘア』は、ポップスターを夢見る少女が夢を叶えるものの、名声の重圧と要求に次第に苦しめられていくという物語だった。

ビヨルン:
「当時、私たちは『ザ・ガール・ウィズ・ザ・ゴールデン・ヘア』をとても誇りに思っていました。観客の反応も非常によく、なかなか良い曲も生まれましたし、とにかく楽しい経験でした」。

1978年には、ビヨルンとベニーが1年をかけて本格的なミュージカルを書くと発表されたが、その計画は実現せず、代わりにABBAのアルバム『ヴーレ・ヴー』が制作・録音された。

1980年初頭、二人は作曲旅行としてバルバドスを訪れ、大晦日を舞台にしたミュージカルのアイデアを思いついた。現地でコメディアンのジョン・クリーズと出会い、脚本執筆を依頼したが、残念ながら断られてしまった。この構想から生まれた唯一の成果が、ABBAのアルバム『スーパー・トゥルーパー』に収録された楽曲「ハッピー・ニュー・イヤー」である。

ビヨルン:
「ドラマと音楽が結びつくことに、ある種の魅力を感じていました。具体的に何なのかは分かりませんでしたが、私たちはまだその世界を知らなかったのです。最後のワールド・ツアーの間、エージェントやレコード会社の人たちなど、世界中のさまざまな人にこの話をして、可能性を探っていました」。

ベニー:
「私たちは、スウェーデンでのツアー・プロモーターであり、オーストラリアやアメリカに進出する際にも助けてくれたトーマス・ヨハンソンと、この話をしていました。彼は、私たちがミュージカルを書きたいと思っていることを知っていて、それをブロードウェイのプロデューサーに伝えました。その人物が後にティム・ライスと会ったのです。ティムは新しいコラボレーターを探していると話していたので、そのプロデューサー、リチャード・ヴォスが『ミュージカルに興味を持っている二人がいる』と言ったわけです」。

ティムは、ABBAが自分と組んでミュージカルを書くことに興味を持つとは想像もしていなかったが、彼らの音楽のファンでもあったため、すぐに強い関心を抱いた。彼はマネージャーのスティッグ・アンダーソンを知っていたため、すぐに電話をかけ、1981年12月にストックホルムで会う約束が取り付けられた。ティムはキューバや巡航ミサイル危機を中心に据えたものなど、いくつかのミュージカル案を提示したが、ビヨルンとベニーの興味を最も強く引いたのは『CHESS』のアイデアだった。

ビヨルン:
「それでティムがストックホルムに来ました。素敵なレストランで夕食を取り、延々と話をしました。彼はいくつかのラフなミュージカル案を持っていて、そのひとつが『CHESS』でした。もうひとつはキューバか何かの話だったと思います。私たちは『これは面白いぞ』と感じました。スウェーデンはロシア、つまり当時のソビエト連邦とほとんど国境を接しているようなものですから、冷戦の感覚や意味を肌で知っていました。それはとても身近で、現実的なものでした。その背景を持つミュージカルを作るというのは、非常に魅力的に思えたのです。だから、その夜のうちに、ほぼ『よし、CHESSをやろう!』と決めたのだと思います」。

1982年11月、ABBAがアルバム『ザ・シングルズ~ファースト・テン・イヤーズ』のプロモーションのためロンドンに滞在していた際、このコラボレーションは正式に成立し、『CHESS』プロジェクトを管理するための会社スリー・ナイツ・リミテッドが設立された。

この時点で、ティム・ライスはすでに別のミュージカル制作に取りかかっていた。中世の吟遊詩人を題材に、スティーヴン・オリヴァーと組んで書いていた『ブロンデル』で、これは1983年にロンドンで開幕予定だったため、まずこの作品を完成させる必要があった。一方、ABBAのメンバーたちもそれぞれに予定を抱えていたが、女性メンバーがソロ活動に取り組むことになったため、ビヨルン・ウルヴァースベニー・アンダーソンは、この刺激的な新しいミュージカル企画に本腰を入れて取り組める状況になった。

1983年1月、ビヨルン、ベニー、ティム、そしてリチャード・ヴォスは、主要キャラクターの何人かが生きていたであろう空気感を掴むため、モスクワへ飛んだ。その後1983年の残りの期間、3人の共同制作者はストックホルムとロンドンを頻繁に行き来しながら、作品について議論し、プロットライン、音楽、歌詞を書き進めていった。CHESSの試合をミュージカルにするというティムのアイデアは、ここにきて本格的に命を帯び始め、シンプルな仮題として『CHESS』と名付けられた。

プロジェクト初期の話し合いの段階で、このミュージカルは『ジーザス・クライスト=スーパースター』や『エビータ』と同様、まずはコンセプト・アルバムという形を取ることが合意された。ビヨルンとベニーはレコーディング・スタジオの達人であり、ストックホルムには、ABBAとして絶頂期に彼らの仕様に合わせて建てられた自前のポーラー・スタジオを所有していた。この新プロジェクトが、まずレコードとして進行するのはごく自然な流れだった。

ベニー:
「1983年に作曲を始めましたが、考え始めたのは1982年でした。ティムはアイデアとシーンのあらすじを持っていて、私たちは1年間話し合い続けました。ティムがどんな物語を語りたいのかを理解し、登場人物や場面、状況に馴染むためです。そのコンセプトから音楽を書き始めました。1年間、週5日、午前10時から午後17時まで作業しました。私はピアノを弾き、ビヨルンはギターを弾き、アイデアをあれこれ試しました」。

ビヨルン:
「何時間も何時間も一緒に作業し、ゆっくりと前に進んでいきました。当時すでにティムは、3本の非常に成功したミュージカルを書いていたので、私は彼の仕事に深い敬意を抱いていました。私は仮の歌詞を書きましたが、そこにはかなりの内容を盛り込み、ティムが自由に手を加えられるようにしました。あるいは、彼がまったく新しいものを書くこともあり、私のアイデアを残したり発展させたりしました。それから、実際に歌ってみて機能するかどうかを試したのです。ティムと仕事をすることで多くを学びましたし、ABBAの曲を書いていたとき、直感だけで、すでに“演劇的な書き方”をしていたのだと気づきました」。

ティム:
「物語の各シーンを取り上げ、プロットを組み立てていきました。ベニーとビヨルン――特にベニーが――恋の歌なのか、口論の場面なのか、群衆のシーンなのかといったテーマに触発されて曲を書きました。
ビヨルンは、たいてい意味は特にないけれど、美しいフレーズを含んだ、とても興味深い仮歌詞を書きました。彼は私とベニーの橋渡し役でした。私は歌詞の端、ビヨルンは中間、ベニーは音楽の端、という関係だったのです」。

ビヨルンとベニーは、楽譜を書いたり読んだりしないため、完成したミュージカルの楽曲をまとめる編曲家が必要だった。そこで彼らは、ABBAのツアーやスタジオ作品で数多くの編曲を手がけてきたアンダース・エリヤソンに依頼した。大規模な仕事だったが、幸いにもアンダースは引き受け、作品のために美しくオーケストレーションされたスコアを完成させた。

アンダース:
「家に帰ってよく考えましたが、『まあいいか、星を目指せば、少なくともその途中には行き着くだろう』と思い、引き受けることにしました。そこから、さまざまなスコアを研究し、昔の音楽の先生たちに助言を求めるなどして取り組みました」。

楽曲制作の過程で、ビヨルンとベニーは何人かの友人に頼んでデモ録音を手伝ってもらった。ABBAのアグネタ・フォルツコグは「エヴリ・グッド・マン」というデモを録音し、これは後に「ヘヴン・ヘルプ・マイ・ハート」となった。トミー・コルベルイビヨルン・シフスもいくつかの曲で協力し、最終的に二人とも本録音に参加することになる。

1983年末、アルバムの最終キャストが発表された。エレイン・ペイジがフローレンス役を担当し、トミー・コルベルイがロシア人(当時はまだ名前がなかった)を演じることになった。『ジーザス・クライスト=スーパースター』のアルバムに出演していたマレイ・ヘッドがアメリカ人役(これも当時は未命名)を務め、ビヨルン・シフスがアービターを担当。『エビータ』オリジナル・アルバムで愛人役を演じたバーバラ・ディクソンが、ロシア人の妻スヴェトラーナ役を演じ、デニス・クィリーがKGBの男モロコフ役を務めた。

アルバムのレコーディングは1983年11月1日に始まり、当初は1984年5月末頃の完成、同年夏の終わりのリリースが予定されていた。温かみのある高品質なオーケストラ・サウンドを実現するため、フル・オーケストラを使用することが決定され、1984年4月第1週にロンドンのCTSスタジオが予約された。ここでロンドン交響楽団アンブロジアン・シンガーズが、オーケストラおよびコーラスの録音を担当した。

しかし、求められた細部の作り込みと完成度が予想以上に時間を要したため、アルバムの発売日は1984年10月に延期された。最終ミックスは1984年9月28日に行なわれ、ついにコンセプト・アルバム『CHESS』は完成した。実際にはLP3枚分に相当する素材が録音されていたが、現実的には2枚組が限界と判断された。当初は仮題にすぎなかった『CHESS』というタイトルは、最終的に正式名称として採用された。

アルバムは1984年10月26日に発売され、プロモーションの一環として小規模なコンサート・ツアーが行なわれた。初公演は10月27日のロンドン・バービカン・センターで、その後、10月28日にハンブルク、同日アムステルダム、10月29日にパリ、そして11月1日にストックホルムのベルワルドホールで公演が行なわれた。

ベニー:
「これまで手がけたどんな仕事よりも、大きな満足感を覚えました。ABBAの音楽にも満足していましたが、『CHESS』は雰囲気や内容の面で、はるかに豊かな作品です」。

ティム:
「演劇のために書くことと、ポップ・アルバムを書くことには大きな違いがありますが、どちらも同じくらい難しいものです。ただ、1950年代以降のロックの時代を通じて、この両方を成功させた音楽家は、他に思い当たりません。偉大なポップ・アルバムの作り手はミュージカル・シアターは書けないし、スティーヴン・ソンドハイムや、アンドリュー・ロイド=ウェバーのような偉大な演劇作家がABBAのアルバムを書くこともできないでしょう。ベニーとビヨルンは、その両方ができるように見えます」。

アルバムは世界で200万枚以上を売り上げ、ミュージカル・アルバムとしては非常に高いセールスを記録した。そこからシングル2曲が世界各国のチャートを駆け上がった。「ワン・ナイト・イン・バンコク」は国際的ヒットとなり、イギリスでは12位に達したほか、西ドイツ、オーストリア、イスラエル、南アフリカ、オーストラリア、スウェーデン、デンマーク、オランダでは1位を獲得。全世界で300万枚以上を売り上げた。アメリカでは2つのバージョンがヒットし、そのうち1つはトップ10入りを果たした。

1985年初頭には「アイ・ノウ・ヒム・ソウウェル」がリリースされ、すぐにイギリスのチャート1位を獲得し、史上最も売れた女性デュエット曲となった。興味深いことに、このデュエットのレコーディングでは、よくあることだが、2人の主役歌手は実際にはスタジオで顔を合わせていなかった。エレインが先に自分のパートを録音していたためである。

『CHESS』のアルバムとコンサートは概ね好意的な評価を受けた。タイム誌は「演劇のために生み出されたロック・スコアとして史上最高」と称賛した。ニューズデイはその独創性に注目し、「シンフォニック・ポップの新境地を切り開いた」と評した。
「ベニーとビヨルンのスコアは、グレゴリオ聖歌からギルバート&サリヴァンリチャード・ロジャースフィル・スペクター、さらにはヒップホップまで、あらゆる旋律様式を略奪し、洗練され、口ずさめる旋律に満ちたロック交響的融合を生み出している」。

一方、ロンドン・タイムズはそれほど好意的ではなかった。
「『ホワイト・ホース・イン』そのままのような冒頭のチロル風合唱、アルビノーニもどきのアダージョ、ロイド=ウェバーもどき、まずまずのオペラ四重唱(シューマンに少しのバッハを混ぜたような)、そしてリベラーチェが一瞥するかもしれないほどの要素が多々ある」と評した。

アルバムとシングルに合わせて5本のプロモーション・ビデオが制作され、『CHESS・ムーヴズ』というコンピレーション映像として発売された。収録曲は「ワン・ナイト・イン・バンコク」「ノーバディーズ・サイド」「ジ・アービター」「アイ・ノウ・ヒム・ソウ・ウェル」「かわいそうな子(ピティ・ザ・チャイルド)」。各ビデオには、ティム・ライスによる短い導入が付けられ、キャラクターや楽曲の背景が説明されている。

これほど成功したアルバムとヒット・シングルを受け、『CHESS』の舞台版は大きな期待を集める存在となった。コンセプト・アルバムを、いかにして完全な舞台作品へと仕上げるのか――それが次なる課題であり、その実現方法については、まだ誰にも確かな見通しが立っていなかった。

<続く>


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