ABBA JAPANのホームページです。

ABBAファンのみならず、
ABBA初心者の方も楽しめるそんなサイトです。
充分にご堪能下さい。

劇団四季 マンマ・ミーア! WATERLOO RADIO

米国よりも海外で大ヒットしたディスコの名曲5選

1970年代後半の一時期、ディスコは主流文化を席巻しました。知らず知らずのうちに耳から離れなくなる、あるいは聴くだけで楽しくなるような、魅力的なダンスミュージック。速いビートにストリングス、ホーン、せわしなく刻まれるパーカッションをふんだんに重ねた音楽に誘われ、米国やヨーロッパの何百万人もの人々が、とっておきの体にぴったりしたベルボトムをはき、髪を羽根のようにふんわりと流し、地元のディスコのダンスフロアで思い切り踊りました。あるいは、自宅のステレオで、その時代の最新ヒット曲を存分に楽しんだのです。

おおむね1975年から1980年にかけて、ディスコの定番曲が数多く生まれました。しかし、誰もが知るヒット曲の顔ぶれは、国によって同じではありません。米国のレコード市場では小さなヒットにとどまった曲の中にも、海外でははるかに大きな成功を収めたものがあります。

社会全体を巻き込んだディスコブームを経験し、その音楽を懐かしく思い出す米国の人々でも、レイフ・ギャレット、ドナ・サマー、パトリック・エルナンデス、ABBA、ティーチ・インといったアーティストの、ある特定のシングルについては、かすかにしか覚えていないかもしれません。一方、ほかの国のディスコファンにとっては、どこへ行っても耳にする、史上屈指の大ヒット曲として記憶されているのです。

「アイ・ワズ・メイド・フォー・ダンシン」―レイフ・ギャレット

1970年代後半は、魅力的で心地よい歌声を持つ十代のアイドルにとって、世間が温かく迎え、応援してくれる時代でした。そのポップカルチャーの世界にいたのが、レイフ・ギャレットです。十代向け雑誌で人気を集めた俳優兼歌手で、シングルを中心に活動するポップス、ディスコのボーカリストとして、まずまずの成功を収めていました。

今日では、意外にも経済的に困窮している著名なミュージシャンですが、当時は「サーフィン・U.S.A.」「悲しき街角」「肩にほほをうずめて」といった往年の名曲のカバーをヒットさせ、ラジオで流れるようになりました。その後、1978年に、当時の流行を取り入れた軽快なディスコ曲「アイ・ワズ・メイド・フォー・ダンシン」で、初めて、そして唯一のトップ10入りを果たしました。

ドラマチックで、畳みかけるような勢いのあるこの曲で、ギャレットはディスコ時代の空気を捉えた、純粋な恋の歌を歌いました。「アイ・ワズ・メイド・フォー・ダンシン」は、英国での彼の最大のヒット曲となりました。1979年初めに英国のポップチャートで最高4位を記録し、10週間にわたってチャート入りしました

「アイ・フィール・ラヴ」―ドナ・サマー

1970年代のディスコ曲でありながら、今でも踊りたい気分にさせてくれるドナ・サマーの「アイ・フィール・ラヴ」は、意欲的で、聴く人を包み込み、魅了するダンスミュージックの傑作です。幾重にも音が重なり、宇宙的な広がりを感じさせ、感覚を圧倒するほどの刺激を目指したこの壮大な作品は、サマーと共同制作者のジョルジオ・モロダー、ピート・ベロッテによる、シンセサイザーとグルーヴの両方を柱に築かれています。

サマーが1970年代後半に放った「ホット・スタッフ」「バッド・ガールズ」「マッカーサー・パーク」といった、ダンスフロアを埋め尽くした全米1位の大ヒット曲に比べると、「アイ・フィール・ラヴ」は、米国の一般的なポップスの聴衆にはそれほど大きく受け入れられませんでした。トップ40を流すラジオで頻繁に放送されるには、少し風変わりすぎたのかもしれません。最高位の6位に到達したのは1977年11月で、そこまで3か月かかりました。

一方、ヨーロッパのポップファンは、サマーと「アイ・フィール・ラヴ」を何の抵抗もなく受け入れ、この刺激的なディスコの名曲を温かく、熱烈に支持しました。曲はオーストリア、ベルギー、オランダ、英国のポップチャートを上昇し、英国では4週間にわたって首位を獲得しました。今も英国で最も売れたシングル100曲の一つに数えられています。

「ボーン・トゥ・ビー・アライヴ」―パトリック・エルナンデス

スペイン生まれ、フランス育ちの歌手パトリック・エルナンデスは、自身が所属していたポップバンド、パリ・パレス・ホテルを離れ、ディスコ歌手としてソロ活動を始めました。そして、抗いがたい魅力を持つ「ボーン・トゥ・ビー・アライヴ」で、たちまち大ヒットをつかみました。

1970年代型ディスコの勢いが衰えつつあったころ、ベースとホーンセクションを前面に押し出した「ボーン・トゥ・ビー・アライヴ」は、1979年に米国の「ホット100」で、十分に健闘したといえる最高16位を記録しました。エルナンデスが米国のポップチャートに登場したのは、この曲だけでした。

ダンスフロアでの恍惚感を通してこそ得られる、生きることへの晴れやかな賛歌である「ボーン・トゥ・ビー・アライヴ」は、ディスコがもたらす、心を解き放つような解放感を見事に示していました。

当時の主要な音楽市場の中で、「ボーン・トゥ・ビー・アライヴ」が国内のポップチャートで1位にならなかった国は、米国を含むごく少数でした。このディスコ・アンセムによって、エルナンデスはオーストリア、デンマーク、メキシコ、ニュージーランド、ポルトガル、スウェーデン、ノルウェー、西ドイツで、一時期チャートの頂点に立ちました。母国フランスでは特に大きな成功を収め、15週間にわたって1位を獲得しました。

「ヴーレ・ヴー」―ABBA

米国でベスト盤『ABBAゴールド』がマルチ・プラチナ認定を受け、ABBAの曲をもとにした2本の映画『マンマ・ミーア!』が興行的な大成功を収めたことは、ひとまず置いておきましょう。次々と作品を発表していた1970年代当時、ABBAの米国での人気は、それほど高いものではありませんでした。

スウェーデンを拠点とするABBAは、1974年、ユーロビジョン史上最高の曲とも評される「恋のウォータールー」で、一躍注目を集めました。この4人組が米国で1位になったのは一度だけで、1976年の「ダンシング・クイーン」によってでした。

ABBAはディスコ専門のバンドではありませんでした。ポップス、ロック、バラードにも取り組んでいましたが、そのダンスミュージックは、特にヨーロッパで大きな成功を収めました。

そうしたディスコの大ヒット曲の一つが、1979年の「ヴーレ・ヴー」です。熱気にあふれ、力強く前へ進むような勢いを持ち、ブラスの響きが曲を引っ張っています。官能的な響きのあるタイトルは、フランス語で「あなたは望みますか?」という意味で、歌の舞台もナイトクラブです。

「ヴーレ・ヴー」はベルギーで1位になり、英国、アイルランド、オランダ、スイスを含む多くの国でトップ10入りしました。しかし、米国の人々は「ヴーレ・ヴー」を、それほど求めてはいませんでした。米国ではまったく振るわず、「ホット100」に入ったのはわずか3週間で、最高位も80位にとどまりました。

「ディン・ア・ドン」―ティーチ・イン

ABBAがユーロビジョンで優勝し、広く知られるようになった翌年、別のグループが、同じように軽やかで屈託のないポップソングによって、世界的な成功を収めました。

1975年、ティーチ・インは「ディン・ア・ドン」で、オランダにユーロビジョンの優勝をもたらしました。英語で書かれ、歌われた「ディン・ア・ドン」は、無邪気でどこかとぼけた曲で、音楽の力を借りて心を明るくしようと、聴く人に呼びかけています。しかし、この曲には、1970年代にシンプルなダンスポップを、クラブで大きな威力を発揮するディスコ曲へと変えた、スタジオ制作上の工夫や楽器編成が、すべて備わっています。

ティーチ・インの母国オランダでは、「ディン・ア・ドン」はシングルチャートの最高3位にとどまりましたが、ヨーロッパ全域では非常によく売れました。ベルギー、西ドイツ、アイルランドでトップ10入りし、スイスとノルウェーでは1位を獲得。ノルウェーでは8週間にわたって首位を守りました。

一方、海を隔てた米国では、ディスコが広まり始めた時期の「ディン・ア・ドン」は、わずかな注目を集めるにとどまりました。ビルボードのアダルト・コンテンポラリー・チャートで、最高22位を記録するのが精いっぱいでした。

※原文の記述をそのまま訳しています。「ダンシング・クイーン」が全米1位を獲得した年は、原文では1976年となっていますが、実際には1977年です。

https://www.grunge.com/2270630/disco-hits-way-bigger-outside-us/


ホームページ作成ホームページ制作京都